相沢忠洋 「岩宿」の発見——幻の旧石器をもとめて—— 目 次  第一部 少年の孤独    雷と赤土と空っ風     炉辺の対話     すそ野《の》の村々    哀愁のふるさと     �歴史�のなかに育って     こわれた一家団らん    小僧という身分     浅草のはきもの屋で     古代へのあこがれ    海軍志願     戦争へ突入     敗戦から新しい時代へ  第二部 赤土の誘惑    空疎な日々     かごから解き放たれて     失意のなかから出発    大自然にふくらむ夢     細石器発見へ     深まる謎     黎明《あけぼの》時代の遺跡と謎の石剥片の追跡  第三部 岩宿発掘    高まる遺跡への関心     登呂遺跡の刺激     赤土の崖の謎     東京の先生たちとの連絡     明るい光照らす     にがい経験とかべ    赤土に眠る黎明期文化     まぼろしの太古の世界     定形石器の発見    新しい学問の出発へ     �重大な発見�だ!     ついに発掘成功     たどり着いた岩宿の丘    あとがきに代えて    文庫刊行にあたって [#改ページ]   第一部 少年の孤独   雷と赤土と空っ風   炉辺の対話 〈赤城おろしのなかで〉 今朝は特別寒さがきびしかった。  十時をすぎるころになって、ようやく日ざしがのぞき、暖かさを感じさせはしたものの、赤城《あかぎ》の黒檜山《くろびやま》をおおっていた雪雲が動き出したと見る間に、たちまち広がって、|ふぶき《ヽヽヽ》となってしまった。  山|すそ《ヽヽ》一帯に北西の風が赤城|おろし《ヽヽヽ》となって、たたきつけるように吹きつけてきた。  私は、納豆《なつとう》をかごに入れ、自転車で、すそ野の村々を商《あきな》いにまわっていた。だが、どうも売れ行きがよくなかった。旧正月も終わって、ひな祭にはまだ早いというのに……。いなかの商い、とくに納豆は、祭日など、いわゆる�|もの日《ヽヽび》�の前後は自家でそれぞれごちそうを作るせいか、商売にならない。売り上げがよくなるのは、どうしても五月の節句すぎ、畑仕事が始まらなければだめなのである。そのため、納豆の売れ行きがよくない四月ごろまでは、生活費にもこと欠いてしまい、売り食いでつながなければならなかった。  しかし、商いのほうは悪くても、私の研究調査は冬から春先にかけて、最も条件のよい季節なのだった。  枯れ野が一面につづき、見通しよく地形の観察や遠景写真を撮る絶好のチャンスが多く、また畑作物が少ないので、遺跡地周辺の調査がしやすいからである。  こうして、生活は苦しくても、予定されている学会での研究発表もあるために、写真撮影や資料整理に費用がかかるので、今年も商いをつづけないわけにはいかなかった。そこで、納豆の個数も少なめにもって出かけた。ふつうなら二、三部落をまわれば売り終わる予定であった。  ところが、まわってみると、予定していた村に前日、ほかの納豆売りがきてしまっていて、さっぱり売れない。えんぎをかつぐわけではないが、ひとつつまずくと出商売は気合い抜けがしてしまう。それでもなんとか売り上げねばと、ペダルをふんで、きょう一日商いをつづけてきたのだった。  さっき丘の上の道を走りながら見た太陽は、西上州の榛名山《はるなさん》と浅間山《あさまやま》の間にあった。しかし、いまはその太陽も、山かげに姿を没してしまい、あれほど吹きつづけていた赤城おろしが急にピタリととまり、赤城の雪雲もその動きをとめてしまった。  いちだんと寒さが身にしみる。いつの間にか、赤城の峰がすぐそこにあるところまで登ってきてしまっていた。もうひと頑張りだ、となじみ深い村へ急いだ。めざす部落の何軒かのお得意さんは、私が行商をはじめた昭和二十一年からの懇意で、二十戸ほどの小部落であった。  たずねてみると、ここにも町の豆腐屋が納豆を売りつけていったあとだった。 「寒いから、あたっていかねえかい」  と気の毒そうにいう。だが私はそれどころではない。気がせくばかりだった。つぎの家へ急ぐ路面は、早くも凍りはじめたのか、ペダルを踏むと、バリバリと音をたてた。  つぎの家では、 「きのう買ったばかりだけど、ちょうど嫁にいったのが、あす帰るからもたせてやろう、子どもたちも好きだから」  と二十個も買ってくれた。私は内心ほっとした。ありがたかった。二個サービスにおいてその家を出た。ここで訪れる家も一、二軒を余すだけとなった。 「きょうはいよいよ残るかな」  かごに残った納豆をかぞえながら私の足は重かった。  冬の農家は休むのが早い。農家のまわりには明かりひとつ見えない。時刻は早くも午後七時をまわったらしい。自転車のライトがあかるく道を照らしだす。もうこれまでかと、最後の一軒の庭先に自転車をとめた。 〈納豆売りと考古学〉 「こんばんは——、納豆屋ですが……」  と声をかけながら、手に力を入れくぐり戸を開けると、炉にもえている火があかあかと目にうつってきた。  炉端の障子のかげから、 「納豆屋があるもんか、こんなにおそく。穴ばかり掘っているから、寝る時分になって商いをしなければ、ならねえんだんべ。穴っぽりだって、寒かんべえ。こっちへふんごんであたんねえかい!」  とあいかわらず口の悪いお爺さんの声がした。 「こっちへきねえかい」  腰をあげてお爺さんは座をあけてくれた。長靴をぬぎ、冷えきった足先を火にくっつけるように近づけた。靴下から|ゆげ《ヽヽ》がたちのぼる。ぬくもりがしびれるように足先から伝わってきた。 「考古学の先生も、お爺さんにあってはだいなしね」  奥の|こたつ《ヽヽヽ》のある部屋から声がした。家族の笑い声が聞こえてくる。 「婆さん、|ボヤ《ヽヽ》をくべねえか」  お爺さんは|ソダ木《ヽヽ》を一本手にとると炉の火をかき広げた。 「もう商いもだめでしょう。ゆっくりあたっていきませんか。子どもたちも納豆屋さんのくるのを待っていたんですよ」  と奥さんがこたつの部屋から出てきて、お茶を入れる仕度をはじめた。  |かぎ竹《ヽヽヽ》にかかった真っ黒い大きな鉄びんのまわりから、いちだんとほのおが舞いあがる。手をかざして、もえるほのおを見つめていると、……この炉端にはじめて腰をおろし、熱いお茶をもらったときも、やはり赤城おろしがひどかった。あれからもう十何年にもなる……と、しみじみとすぎさった歳月の早さが思えるのだった。そのころ、この家は、男三人、女二人の子どもと両親の七人家族だった。  その子どもさんたちもいまはりっぱに成長し、それぞれ就職したり、嫁《かしず》いたりして、末の娘さんが短大へ通っているだけ。長男は青年団でのロマンスが実を結んで、もう小学六年の女の子と四年の男の子の父親になっている。お爺さんお婆さんもまだまだ元気で、一家が田畑の耕作と養蚕をせっせともりたててきている。 「みんな元気かい」  きせるにたばこをつめながら、お爺さんがいった。 「ええ、どうやらやっています」 「そりゃあいいや。元気なのにこしたこたあねえからな」  横からお婆さんが、 「納豆屋さんも、もうずいぶん長いね、たしかこの家《うち》へはじめてきたのは、いま東京へ行ってる三男が生まれて間もなくのころだったんだから……」  としんみりいう。 「そうでしたね、元気に働いていますか」 「正月に帰ってきてね、納豆屋さんのことを話していたよ、テレビで見たってね」 「見てくれましたか」 「あいつも納豆が好きだった。その納豆屋がいつも夕飯を食っちゃったあとにやってくるもんだから、また食いなおしでな、よく米を食われたもんさ」  とお爺さんがいう。 「すいません、どうもまわる順がおそくなっちゃって……」 「わかるもんけえ、残るとあわててこっちへやってきたんだんべえ」  またみんなが笑った。かぎ竹にかかった鉄びんのふたが、カチカチと音をたてたと思うとブーッ! と吹きこぼれた。奥さんがかぎ竹の先をあげ、煮えたぎる湯を急須についで、お茶をだしてくれながら、 「そう、そう、畑でゴンボーを掘っていたら、何かが出てきたってうちのひとがいっていたけど、お爺さんどうしたでしょうね」 「孫がもってきただろう」  六年生の安雄くんが懐中電灯を手に外へ出ていった。 「どうせ、てえしたもんじゃねえよ」  とお爺さんがいう。そこへ安雄くんがもどってきた。 「これだよ」  私は受けとって見ながら、 「ほう、これは、縄文《じようもん》土器の取手と石の斧ですよ、大きいのが珍しいですね」  というと、 「それ、何年くらい前のものですか」  と女子短大へ行っている千恵美さんが聞いた。 「そうですね、五千年前くらい前のものでしょうね」 「へええ、よくわかるもんだねえ」  とお婆さんが感心する。 「五千年くらい前というと、縄文時代のなかごろですか」  と千恵美さんがいう。 「そうです、いちばんはなやかな時代だったんですよ」 「千恵美さん、よく知っているのね」  と兄嫁にあたる奥さんが感心していう。 「この間、学校の図書室で借りた本に出ていたんですもの」 「お母ちゃん、ぼくも知ってるよ、学校で先生が大昔の人たちの生活を話してくれたんだもの、その時代を石器時代というんだって」  と安雄くんも言葉をはさむ。 「おめえたち、納豆屋のまねをしちゃあだめだぞ、食えなくなっちゃうからな」  とお爺さんが真顔でいうと、 「ちがうよ、お爺ちゃん、考古学という学問なんだよ、ぼくも研究するんだ」  と安雄くんもまじめな顔つきでいいかえす。 「爺さんだってな、むかし塚を掘ったことがあるからな。いいものが出て、伊勢崎あたりへもっていくと、一パイ飲めてな。だけどなかなかいいものは出ねえもんさ。考古学っていうのは古物屋だからな、ハッハッハ」 「いやだ、ちがうわよ、そんなこというと、納豆屋さんがかわいそうよ」  私は笑いながら、お爺さんと孫たちのやりとりを、いろりのほのおごしにながめていた。 「それはそうと、納豆屋さんはどうして、そんなに古いことが好きになって、熱をあげるようになったんですか。ここまでくるにはたいへんだったんでしょうね。よかったら子どもたちに聞かせてやってくれませんか」  と奥さんがいった。 「そう、そう、その前に、納豆はあるんですか。あったらみんなが好きだから十五個ほどもらいましょうか」 「そうだな、商売を忘れちゃしようがねえからな」  お爺さんは、いうだけのことをいって、お茶をのんでいる。私は外に出た。外はしんしんと凍《い》てついていた。かごのなかに手を入れると、十二個ほどでおしまいだった。 「すいませんが、十二個しかないんですが……」 「ああ、けっこうですよ」  私は、その日の納豆が売りきれたことでホッとした。 「さ、もう商売が終わっちゃあ——いいだろう。いつも商売をすると、さっさと帰っちゃうんで、みんなが張り合いがねえっていうからな」 「熱いお茶が入りましたよ、菜漬けでもどうですか」 「すみません、どうも」  手のひらにのせられた白菜の漬けたのを、ひとかわとってつまみながら、お茶をのむと、腹の底までしみとおるのであった。 「なんてったってえ、えれえもんさ。二十年以上もひとつことをやるということは、容易じゃねえからな。やっぱり自分で自信をもっているんだなあ。なんて悪口をいわれても平気、こうやって話しているいまでも、はじめてきたときと、ちっとも変わっちゃあいねえ。それが人間はなかなかできるもんじゃねえんだ」 「そう、うちへはじめてきた時分より最近のほうがずっと若返ったようですよ」 「そうですかねえ」  私は思わず手で顔をなでた。  新しくソダがくべられ、ほのおがいちだんと大きくなり、いつの間にか家じゅうの人が炉端をとりかこんできて、あかあかともえるほのおに、ひとりひとりの顔がてらしだされていた。   すそ野《の》の村々 〈赤城山麓にひそむ祖先の体臭〉 私が、赤城山のふもとに散在する村々をおとずれたのは、昭和二十一年、戦争が終わって五ヵ月余りがすぎた春まだ浅いころであった。  私は、すき腹をかかえ、食糧を求めて、村々をおとずれ、一軒一軒と歩きつづけているうちに、すそ野の大自然のなかにうずくまる聚落《しゆうらく》のたたずまいに、魅了されてしまったのである。  大自然のひろがりは、そこに住む人々の困惑のさまを、さながら大地の土面にうごめく蟻《あり》の姿のように小さな存在に思わせた。赤城の山容はそれほど雄大かつ尊厳であった。  このころ、市街地という市街地では、人間対人間が、それぞれ、生きるために、食うために、混乱と貧しさのどん底で、きびしい対決をせまられてひしめきあっていた。  私も、このひしめきあいのただなかにいた。  国家社会のゆくすえをともに案じ、ともに生きようとするそれまでの歩み方とはうってかわって、人々それぞれが生きていかねばならない殺伐さがうずまいているのだった。  私はそのはげしいひしめきのなかを、まいごのようにさまよっていた。それは、かごのなかで飼育されていた小鳥が、急に、大自然のなかに放たれたようなものともいえた。  市街地の混乱のなかから逃げ出すようにして、大自然のふところを歩いてみると、そこには情緒《じようしよ》と郷愁が漂い流れ、四季おりおりの変化が見られ、人間生活のきびしさとうるおいの調和があるのだった。  食糧を求めておとずれた村落に、買い出しや行商で通うようになり、それによってなにがしかの利益を得てその日その日をすごすようになった。単調なくりかえしではあったが、自然のなかの人間生活のよさをしみじみと味わい知ることで、私は満ち足りた気持ちであった。  そんなくりかえしのなかで、いつしかこの大自然のふところに抱かれた人間生活のあけぼのの時代に、追慕の思いをかられるようになった。そしてそのなかに、自分のこれからの人生の歩みの道標を求めたい、と願うようにもなっていた。  私たちの祖先の残した、人間文化の体臭が、未知の世界にひらかれていることを知ったのはそれから間もなくのことだった。それは大自然のなかの村々の生活の土台となっている、赤土——関東ローム——のなかに残されていたのである。  その残された体臭にふれ、その体臭を残した人間生活の跡である丘の上に立つとき、私の夢は広大なものとなってふくれあがった。  私は、赤城の山麓にひろがる赤土中にひそむ祖先の体臭を、夢中で追い求めはじめた。  この夢をひらかせてくれたのが、赤城山のすそ野の村々の一角、笠懸《かさかけ》村の丘陵地に露頭した赤土の崖——岩宿遺跡——であった。  それがはしなくも、日本人の祖先を求める重要な手がかり——鍵——に発展しようとは、もとよりこのとき予想もしなかったことであった。 〈空《から》っ風と雷〉 夏の雷、冬の空《から》っ風、これは群馬の自然がもたらす名物である。  うっとうしい梅雨期も七月中旬をすぎると、雲が切れはじめ、その切れ目から太陽の強い光が照りつけはじめる。すると、あたかも定期便のように、暗雲がむらむらとあらわれてくる。  雷は、この黒雲に乗って、するどい稲妻の閃光を走らせ、雷鳴をとどろかせながら、上毛の山野を駆けめぐるのであった。その雷鳴の下で、青々と茂り、うっそうと視界をさえぎっていた木木や桑の葉も、やがて紅葉が深まり、葉が茶褐色に変わる十一月なかばの恵比須講《えびすこう》近くには、その一葉《ひとつぱ》、一葉《ひとつぱ》に北風が吹きつけはじめ、カサカサと音をたてながら飛び散ってゆく。  そのあとには、ますます強まる季節風のなかに、細い枝並みがちょうど釣り竿を林立したかのようにどこまでもつづいていた。  夏の雷にかわって、空っ風は、お釈迦さんの誕生を祝う花祭りの前後まで、赤土とよばれる関東ローム地帯に砂塵をまきあげながら吹きすさぶのである。ここ北関東の一角にすそ野をながくひく赤城山の南麓地帯は、その名物が活躍する舞台の中心となっている。  この雷が、いつのころから鳴りだし、空っ風が、いつごろから吹きだしたのか、そして名物といわれるようになったのはいつごろからなのか、私にはわからない。  しかし、山麓の村々を歩くとき、その麓の丘陵地帯にある部落は、その丘陵の東南のすそを切り開いて住居を構え、平野地帯では西北に屋根を深くおろし、屋敷のまわりには樫《かし》|ぐね《ヽヽ》の生け垣をかぎの手に高くめぐらし、あるいは立ち木や竹やぶで季節風から身を守る聚落がそこここに見られた。それらの聚落や屋敷には、よく雷さまを祭った大小の祠《ほこら》が見受けられる。  それらを見るとき、この地方に住みつき、村落をつくり、そこに生活の場を求めつづけてきた人びとが、かなり古い時代から、とどろきわたる雷鳴や荒れ狂う空っ風の恐ろしさとたたかい、その危難を避け、祈願してきたことがわかる。そしてその長い歩みのなかから、いつの間にか、名物とよぶようになったのであった。   哀愁のふるさと   �歴史�のなかに育って 〈歴史の町鎌倉〉 私のふるさとは、鎌倉である。  私の住んでいた昭和八年から十二年にかけて、そのころの鎌倉は桜花の季節の八幡前や若宮|大路《おおじ》、海の季節の由比ケ浜や材木座はにぎやかだったが、一方、入り組んだ谷戸《やつ》のなかに入ると、静寂な風情《ふぜい》を漂わせていた。  この町は、歴史が存在するというよりも、歴史のなかに町があるといえるのだった。  しかし、その歴史には、奈良や京都のような古さ、きらびやかさはない。せいぜい、二、三十年しか活動することのできない人間、一人一人の歴史であり、あゆみの跡であるともいえるものだった。  しかも、その人間のあゆみの跡は、あまりにも哀愁が多すぎる。謡曲「鉢の木」の主人公北条時頼の話も、静御前の幼児が由比ケ浜に沈められた話も、母・唐糸《からいと》を慕う万寿姫の話も、また鎌倉の主人公、源頼朝一族の話にしてみてもそうだった。  もしも、そのなかに喜悦の物語があっても、それは原野のなかに咲く、一輪の野菊ともいえる。しかし、この哀愁は、天与のものではなかった。そのときどきそこに住居し、歩みつづけてきた人間一人一人の人生から生まれ、育ってきたものだった。だからこそ、その人びとのあゆみが、鎌倉という一時代と文化とを、日本の歴史の一ページとして残してきたものともいえる。  しかし、私には、この人びとが共通に欲し、心に求めつづけていたものは、栄耀でも、栄華でも、地位でもなく、おそらく一家団らんではなかっただろうかと思われ、材木座で多く発見発掘された、当時の人びとの殺傷痕が残る人骨の報告書を見ても、その若々しい骨はそれを訴えているものと思えてならないのである。  私は少年時代、この鎌倉の一角に育ったのだった。 〈一家団らんの頃〉 私たち一家が、鎌倉の町の東方、金沢街道のかたわら、浄明寺《じようみようじ》御所之内というところへ、横浜の大岡町から移ったのは、昭和八年の夏も終わろうとするころであった。  当時私は八歳で、父母と三人の妹との六人家族であった。  父の一族は、父の弟に当たる家が吉住小桃次《よしずみことうじ》、妹の家が稀音家《きねや》和三郎と名乗り、長唄三絃家研精会派として、旺盛をきわめていた。父はまた笛をよくし、叔父は、北鎌倉の明月院の奥や、東慶寺の奥に庵《いおり》を建て、叔母の家は材木座の山すそにあった。  鎌倉へ移って、秋が深まったころ、衣張《きぬばり》山から張り出した丘陵のすそに新しい家ができあがった。  この付近は、別荘と農家と住宅が入りまじって散在し、滑川《なめりがわ》が近くを流れ、一時間も歩けば海へも出られ、数々の史話が残る閑静な地域であった。すべてが、横浜の大岡町の家の周辺とは、対照的だった。  私は、第二尋常小学校に転入して通学した。学校は、滑川を渡り、金沢道を西に二十分ほど歩いた大塔宮へ行く近道のかたわら、旧跡杉本城の大倉山西麓を切り崩したところにあった。二階建て木造校舎二棟と講堂一棟、生徒数五百名ほどの小ぢんまりと整った学校だった。  校門の前には、牧野さんの屋敷(牧野伸顕内大臣別邸)が、高い珊瑚樹《さんごじゆ》の生け垣をめぐらしてあったのが、いまでも印象に残っている。  行く先々、見聞きすることすべてが珍しかった。その年十二月二十三日皇太子さまが生まれ、その誕生祝いの歌を歌いながら、昭和八年の年は過ぎていった。  昭和九年の新年は、新しい家で迎えた。家族そろっての正月の一家団らんはほんとうに楽しかった。タコあげ、コマまわし、竹馬乗りと、やっと友だちの仲間入りができて、一人で遊べるようになっていた。  春になって、父に連れられ、材木座や稲村ケ崎の岩場に夜釣りに行った。白く岩に砕ける波を見ながら、二間から三間の釣竿の先に鈴を付け、カイズ(黒鯛の子)釣りだった。しかし釣りあげられる魚は小さな白い腹をしたフグが多く、糸の先ではねながら白い腹をふくらませ、針をぬくのを手こずらせるのであった。  家の近くには滑川が流れていた。流れはさして急でなく所々によどみがあり、水はきれいだった。そのよどみに糸をたれると三十センチもある大きなふな、うなぎ、えび、もくどう蟹が子どもの私にもよく釣れた。  その年も秋深くなるころから、父は家を離れ、遠くへ仕事に出かけるようになった。  明けて、昭和十年の正月は、あいかわらず楽しくはあったが、一家そろうということはなくなっていた。それでも、二月に弟が生まれ、きょうだい五人となり、にぎやかになった。  そうして、その日、その日がなんの屈託もない楽しい日々であったが、世間は騒がしさをましていた。  横須賀軍港に近い鎌倉周辺は、第一要塞地帯に入り、あちこちに、軍関係の官舎が建てられ、鎌倉石と呼ばれる第三紀層の、山腹に洞穴を掘る工事が目立ち、空には四発のとてつもなく大きな、銀色をした飛行艇が多く見られるようになった。また町中を歩く人々のなかにも、水兵服の姿が目立ってきた。  元来、鎌倉は別荘地で、物価は高かったが、それがこのような時世でますますあがり、生活は苦しくなるいっぽうであった。  父は、歌舞伎の巡業団について、九州方面の旅に出かけて不在となり、しおくりもとだえがちとなっていた。  五人の子どもを抱える母は手内職や、別荘の草取りなどをやったりして、その日をなんとか過ごしていた。  家の近くの山すそには、山芋が自生していて、隣の農家の小父さんはよく掘りにいった。この小父さんの後について、掘るのを見ているうちに、私も芋掘りがすきになり、学校から帰るとよく掘りに出かけた。  はじめは、遊びで掘っていたのが、いつしか私の掘ってくる山芋が、夕餉の食卓になくてはならぬものとなっていた。麦のご飯にはそれが最も適していたのだろう。妹たちも山芋のおかずならば喜んで食べた。 〈妹の死〉 このようにしながらも、夕餉の食卓は、かろうじて一家団らんの場となっていたが、だんだんと日を追って、ものたりなさが増し、同時に明るさが消えていっていた。  それを、いっそう深くさせるできごとが起きた。私のすぐ下の妹が、かぜがもとで死んでしまったのである。  このとき、父は、遠く九州方面に行って不在、電報は打ったが、行く先がわからず、母はとまどいつつも近隣の人の手を借りて、野辺送りの準備に狂奔していた。  棺をリヤカーに乗せ、小父さん二人が引き、私はその後先になりながら、白木の位牌を手に、逗子街道の名越の切り通しにある火葬場に行った。  夕暮れ、白い木箱に入った妹の骨包みを抱いて、隣の小父さんと夜道を名越を通り、釈迦堂の山あいを、下げ提灯をもって家に帰った。このときの私は、ただ夢中で歩き、悲しさ、さびしさがいっぱいであった。  小父さんが帰って、母は台所で後かたづけをし、私は丸火鉢に気ぬけがしたようによりかかり、ただ火箸で残り少ないすみ火をかきまわしていた。妹や弟は疲れたのか、ねてしまっていた。  くらい奥座敷のチャブ台の上に乗った白布の小箱のみがぼうっと白く見えていた。さきほどまでついていた小さなローソクは、消えてしまって、短くなった線香から、細い煙がただよっていた。私は、その前に坐り、ローソクをたて、火をつけ、手を合わせた。数日まえまで、けんかをしたり遊んだりしていた妹の顔が、いまにも白布包みの中から出てくるような気がし、大粒の涙が、ほおにつたわってきた。 「今夜は、お線香を絶やさないようにしてやりな」  と母はいって、私に代わって坐り、線香に火をつけながら、 「死んだおまえは幸福だよ」  とつぶやくと、後のことばは涙声となって消えてしまった。  私の学校行きは、休みがちとなった。  それから十日余り過ぎた夕方、父がひょっこり、帰ってきた。このとき母は近所に出かけて不在であった。  留守番をしていた私に、 「みんな、おとなしく元気だったかい。これ、おみやげだよ、みんなで分けな」  と包みを渡し、大事そうに持ってきた、むらさきの細長い包みを棚に乗せた。この包みは、父がいつも大切にもっている三本の横笛であることを私は知っていた。 「和江が死んじゃった」  私のいうことばが、終わるか終わらないうちに、奥座敷のふすまを、父はあらあらしくあけると、ふすまに手をかけたまま、茫然と立ちつくしてしまった。 「どうしたのだ」  私は、返すことばより先に、涙があふれてしまって、声が出なかった。  そこへ母が帰ってきた。 「どうして、早く知らせをよこさなかったんだ」  父は母にかみつくようにしていった。 「電報を打ってもらったんですよ。それが何回打っても、もどってきちゃったんですよ」  と母はいいながら顔をそむけてしまった。  それから後、父母がどのような話を交わしたかはわからなかった。  数日して、父と私とで浄明寺さんに妹の骨をあずけにいった。仏前の段に置かれた妹の白布包みに老僧がお経をあげ、その後に父と並んで坐って聞いた。  妹への、これが最後の手向《たむ》けだった。  妹はいなくなったが、父は帰り下の妹のはしゃぐ声と弟の泣き声で、家の中はようやく生気をとりもどし、私はまた学校へかようようになった。  しかし、父母は、夜おそくまで何やら話をつづけていた。   こわれた一家団らん 〈工事場から出た土器片〉 妹の死は、子どもの私の心に、重苦しい空気を吸い込ませてしまった。このころの鎌倉の町は、春夏のにぎわいに比べて、秋冬は静かなところとなり、数多くある谷戸のなかに一歩入ると、そこは閑静ななかに住居や寺が点在していた。しかし、その静かな中にも、日本の移り変わり、とくに横須賀軍港に近いところだけに変化があらわれはじめ、軍関係の官舎がつくられる作業が始まっていた。  私の家の裏のほうにも、住宅が建てられるために地ならし作業が始まっていた。その作業がすすめられていくうちに、土のなかから、いろいろな焼きものがではじめてきた。私は学校から帰るとその作業場へ遊びに行った。そしてそこからあらわれてくる土器片に、私の心は強くひきつけられていった。しかし、それらが昔のものであることはわかったが、何であるのかはわからなかった。ちょうど、作業道具を私の家であずかった関係から、その出てくるものをいくつかもらった。私はだんだん好奇心をかきたてられながら集めていたのだったが、数日して学校から帰ってみると見なれぬ人が二、三人で来ていた。  その人たちは工事現場を見にきた人たちのようだったが、そのなかの一人が、やはり掘り出されてきた土器片に関心を示して、さかんに土方の人と土器片を持ちながら話をしていた。私はそのそばに行ってその話を聞くともなしに聞いた。するとその土方の人が、 「このあいだでたのはまだ持っているかい。このおじさんが見たいとさ」  というので、その人を私の家へ連れてきた。一つ一つ洗って箱に並べてあったものを見せた。その人は興味深そうに一つ一つをながめていた。私はいつの時代のもので、何に使われたものかと聞いてみた。そのおじさんは、これは大昔、まだ電気も何もなかった時代の人たちが使ったもので、その人たちは、昼間はお父さんが狩りに出かけ、お母さんたちがこのような焼きものをつくって、夜ともなるとお父さんが獲《と》ってきた獲物《えもの》を見せ、いろりの火をかこみながら、その日の出来事を話し合っていた。この焼きものはその当時の人びとが住んだあとから出てきたもの、というようなことを教えてくれた。  焼きものもさることながら、夜、いろりの火をかこみながら家じゅうの人たちが話し合って暮らしていたということが、心のなかにじいんとしみこんでくるのだった。そのとき、私の家のなかには、一家団らんということが、まったく影が薄れていたのであった。 〈父母の離婚〉 三月も終わりに近くなったある日、学校から帰ってみると、意外にも来客で家の中は荒れていた。  叔父や、叔母に、母の親類の人も東京から来ていた。それに隣の小父さんまで加わって談合していた。何ごとかわからなかったが、ただならぬ空気であることだけはわかった。「生木《なまき》を裂くようなことをしなくても……」という隣の小父さんの声だけが聞こえ、夜おそくまで談合がつづいた。  ときどきお勝手に出て、お湯をわかす母の目ははれあがっていた。火を燃やす手伝いをしていると、 「お母さんがいなくなったら、お前どうする」  という。私はただだまってうつむくだけだった。  このときの長い談合のすえ、父母の離縁がきまったことなど夢にもしらなかった。  冬でも、暖かい鎌倉である。三月の声を聞くと、もう谷戸の奥にまで春日和が訪れていた。遊びから帰った私は、いつもとは家のなかの様子が変わっていることに気がついた。夕方になると、弟をおぶって夕食のしたくをしている母の姿が見えないのである。  台所で、父が黙りこくって、ご飯のしたくをし、お膳に茶わんを並べ、 「ご飯だよ」  といった。お膳の前に坐って、箸を手にもったが、のどにつまって入らなかった。 「おかあちゃんは……」と妹はいって、しくしく泣きだしてしまった。 「こぼさないで食べな」と父はただひとこといって黙りこむ。  弟は、母がおぶっていったのか、奥座敷の片隅に、小さな寝蒲団が乱れていた。  その夜、妹二人は、泣きながらも、疲れたのか寝てしまった。父は、どうしていたのか、印象に残っていない。  九時、十時と時刻がすぎても、私はねつかれなかった。丸火鉢を抱え、心細くなった炭火をかきまわし、ときどき立ちあがってはカーテンを明けて外を覗いてみた。  暖かいとはいえ、夜がふけるにしたがって、はだ寒さがしみこんできた。表には、月が青白く光を放ち、衣張山の影が墨絵のように浮かんでいた。  十一時をすぎたころ、何回目かのカーテンをそっと開いてみた。  ガラス戸越しに、弟をおぶった母の姿があった。  その姿を見ると同時に、滝のように涙があふれ、母にかじりついてしまった。 「ばかだねえ、どこへも行きはしないよ」といったことばだけが、かすかに耳の底に残っている。  それからの私は、学校が終わると、急いで家に帰り、母の姿を見て安心し、夜中にも、ときどき目をさまして、そこに母の姿があることを確かめていた。  数日がすぎ、やっと安心してねむれるようになった。ある晩、夜中に目をさましてみると、寝ているはずの母の姿がなかった。妹二人と弟と父の寝姿だけだった。父は、ふとんを頭からかぶっていて寝顔を見ることはできなかった。  私は、あわてて起き、玄関へ出てみると、わずかばかり閉め切らずにあった戸の間から、吹き込む風にカーテンが揺れていた。  急いで、戸を開き、外へ出て、家のまわりをまわってみたが、母の姿は見あたらず、冷たい風があるだけだった。  母の名を思いきり叫びたかったが、のどがつまって声も出ない。 「お母さんのばか、ばかばか」心の中で叫びながら涙はつぎつぎと流れ出た。  あくる朝がたいへんだった。ちょうど、乳呑みの仔犬が、いなくなった親をさがすのと同じだった。小さい弟は、父がおぶったが、二人の妹は、ただ泣きじゃくるばかりだった。  隣の小父さんがきて、父になにやら話していたが、父が「早く学校へいきな」というので、朝食も食べずに重い足で学校へ向かった。  友だちは進級できる喜びを話し合い、新しいカバンやノートを見せあっていた。私は、何もいらない、ただ父母兄弟がみないっしょにいてくれさえすればとだけ思っていた。一家団らんへの思慕はこうして私の心のなかに芽生えたのだった。  それからの数日は、目まぐるしかった。まず一歳になったばかりの弟が、父におぶさっていなくなった。三歳になった妹と、六歳の妹もつぎつぎに父に連れられて消えていった。 〈杉本寺の孤独の日々〉 私は一時、家の対岸の二階堂にある杉本寺《すぎもとでら》にあずけられ、ここから学校へ通うことになった。  この寺へは、母がよくきていたのである。私がこの寺にあずけられることになったのも、この寺の和尚さんの好意からだった。寺は、山の上に本堂がありその中腹に庫裏《くり》があった。庫裏からは、私の家の屋根がよく見えるのだった。  本堂正面の重い扉のなかには、国宝となっている、三体の十一面観音がまつられていた。和尚さんは、ときどき訪ねてくる特別の人だけに扉をひらいて拝ませた。私はその後についてゆき、よく拝んだ。  等身大、木彫りの観音さまの顔は、じつに柔和であった。その顔、かたちは、少年の私に何ごとかやさしく話しかけるように見えるのであった。  毎朝学校へ行くまえに本堂に並ぶ多くの仏様へご飯をあげ、学校から帰るとそれをさげにいった。ガランとした本堂のなかで灯明をあげ、正坐して観音経を和尚さんについて習った。細長い経文本を読む私の声と、木魚の音とはちぐはぐであったが、静まりかえった堂内に、木魚の音だけがリズミカルに余韻を残していった。  あずけられた当座はときどき父が訪ねてきたが、だんだんこなくなってしまった。一人で寝床に入り、眠られぬまま、妹や弟のことが思い出され、父母の顔が浮かび、しらずしらずのうちに涙でほおがぬれてしまった。 〈一家団らんへの思慕〉 この寺での生活は、私をまったく孤独の世界のなかに押しこんでしまった。どんなごちそうをだしてもらっても何を買ってもらっても、うれしくなかった。ただ妹や弟と食卓をかこんだときのことが恋しくてたまらなかった。  家がなくなり、父母兄弟ちりぢりになってしまった一人ぼっちの私に対する、部落の人々や寺に来る檀家の人々の目は、掌《てのひら》をかえすように違ってしまった。人間の非情さは日に日に身にしみてくるのであった。  ときどき訪れてくる白衣の巡礼の人が語る、人間の喜怒哀楽の話に耳をかたむけだしたのもこのころであった。  急に、大人の世界に入ったので、何を教わっても、かた苦しく、辛かった。  父母や、妹、弟と別れて月日が流れた。ときどき家に行ってみたが、とざされた庭が雑草に埋もれ、そのなかにコスモスの花が、幾輪か咲いていた。このコスモスの花を見ていると、ここに越してきたとき植えたことが、きのうのように思い出されてしかたがなかった。  私の境遇が変わっていった一方で、日本の歩みも大きく変動していった。見ること聞くことのすべてが、いまでいう軍国調に変わりつつあり、学校で借りて読む、少年倶楽部やまんがにも戦記物が多くなっていた。  朝早く、ラジオから国民歌謡のメロディーが流れてきた。「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ……」私はそのやわらかな歌がすきで、よく口ずさみながら寺内の掃除をするのだった。 〈鎌倉との別れ〉 杉本寺にきて、一年がすぎたとき、杉本寺と別れ、北鎌倉の叔母の家から、学校にかようこととなった。父が叔母の家で、住みこみながら手つだうようになったからであった。  一家団らんが夢となって一年余り、その間の杉本寺での生活は、人情というもの、他人の社会、孤独というものの一端を知るのに十分であった。どうすることもできない、運命と人間の歩みということに深い関心をもったのもこのときであった。  叔母の家から、学校へかようには、横須賀線の北鎌倉から鎌倉まで電車に乗り、後は歩いてかようか、円覚寺前から、明月院入り口前を通り建長寺境内を通りぬけ、奥の回春院の池の端をあるいて、山道を通り西御門《にしみかど》に出、頼朝の墓の前から荏柄《えがら》天神前を経て、大塔宮の前の道を横切っていくかの二通りであった。  この歩いていく道が私はすきだった。  それは、私のよきけんか相手であり、仲のよかった友だちがいるからでもあったが、それにもまして、その道が、そのころ勉強をはじめた国史の時間に、先生から教わる歴史のなかに出てくる場所だったからでもあった。  頼朝のことを教われば、帰りにその前を通る。弘安の役の北条時宗のことにしても、大塔宮の最期にしても、教科書で習い、教わる、当時活躍した人びとの事跡、そしてそこにねむる墓の前を通るのだ。  寺や、墓地の遺跡地を訪ね歩くことのすきな私に、この通学路は十分それをみたしてくれるのであった。  叔母の家での生活は、杉本寺での生活とまったく違っていた。親戚であるということでかえってうまくいかなかった。食事にしても、日々の生活にしてもなにかしらしっくりいかなかった。  日曜日はもとより、学校から早く帰ったときなども、叔母の家から出ては近くの寺ややぐらを見て歩き、そこに遺跡・遺物を残した昔の人々の生活を思い出しては追憶にふけり、そうすることによって、叔母の家にいるときのいやな思いをまぎらわせていた。  夏休みが近くなり、この夏から水泳を教えてもらえると喜び勇んでいたところ、父が急に、群馬県の桐生というところへいくので、私もいっしょにいくのだと聞かされた。  いよいよ鎌倉と別れるときがきた。学校帰りに浄明寺の家へ行ってみた。その家にはすでに知らない人が住んでいたが、別れたときのままだった。  庭はきれいになっていたが、コスモスはあいかわらずしげっていて、早くもつぼみがふくらんでいた。できたてのこの家へ父母弟妹と引っ越して父と井戸を掘ったことがきのうのように思い出された。  隣の家へも行った。よく遊んだ一年上の女の子はまだ学校から帰らないのか見えなかったが、小母さんに「桐生というところにいく」と話すと、おどろいて、 「からだに十分気をつけてね。またこちらへきたら寄りなさい。お母さんはどうしているだろうね」  と涙ぐむのであった。  杉本寺へもいった。和尚さんはいなかった。本堂にいって手を合わせた。扉の奥の観音さまの顔が目にうかぶ。  それから浄明寺へいき、本堂のまえで妹に別れを告げた。  ふるさとは、楽しい思い出が残り、夢が多くあるところである、とよく先生がいっていた。しかし、私の育ったふるさとは、楽しいことよりも、悲しいことだけが多く残ってしまった。  鎌倉の歴史——それは、治承四年十月、源頼朝が鎌倉に入り、元弘三年新田義貞に攻められて幕府がほろびるまでの百五十三年の間に遺《のこ》されたのであり、一人の人間が、最高に活躍できる時期をかりに二十年としてみると、八代に満たない人間の人生の歩みのなかから生まれ出たものといえよう。そして、このなかには哀愁が多く残されていた。  それから六百年後、昭和の年代に、鎌倉は、私にとっても哀愁のふるさととなってしまったのだった。  鎌倉と別れたのは、昭和十二年六月なかばだった。一本の木、小道、何人かの友だち、そして楽しかったわずかの間の一家団らんのころの思い出を深く心にきざみながら。   小僧という身分    浅草のはきもの屋で 〈桐生への旅〉 東京に着き、親類や知人宅に立ち寄って用件をたす父の後について見る東京の町並みは、建物が大きくにぎやかな人出にびっくりした。見るものすべてが、�珍しい�の連続だった。  上野駅から東北線に乗った。生まれてはじめての汽車の長旅だった。いくつかの大きな川も渡った。車窓から見る外の景色は、初夏の太陽が青葉をいきいきと光らせ、広々とした水田や畑がつづいていた。町が、丘が、山が、飛ぶように消えていった。平野の中に、夏の西日を中腹に受けてそそり立つ山があった。父が「ツクバ山だよ」と教えてくれた。汽車は、暗くなって小山という駅に着いた。  あくる朝、両毛線に乗った。汽車が小山の駅を出てしばらくすると、車窓の右に、すり鉢をふせて並べたような山がどこまでもつづいて見えた。栃木をすぎると、その切り立ったような山の中腹には雲がかすみのようにかかっているのもあった。  桐生の駅前は広かったが、東京にくらべたら問題にならなかった。いくつかせまい道を曲がって、にぎやかな通りに出た。しかし通る人の数は、東京できのう見た半分もなかった。 〈山にかこまれた町〉 桐生での家は市街地の中央の泉町というところであった。町のまわりは切り立つような山々にかこまれ、大きな平屋の織物工場があった。その工場のなかからは織機の音がいせいよく聞こえてきた。桐生は織物の町であった。  落ちついてから、父は仕事に出かけた。あいかわらずむらさき包みの笛を角帯のあいだにさしていた。私は数日して近隣の同年の子どもと仲よしになり、いろんなところへつれていってもらった。  歩いて三十分ほどの桐生川へも釣りに出かけた。川は群馬県と栃木県との境を流れていて、水は澄み、流れは強く、石河原がつづき、ハヤやヤマメがいて、夕方になると、カジカ蛙が小鈴をころがすようにないていた。河原から見る桐生の町をつつむ自然は清く澄んでいた。  七月に入ってまもなく、支那で蘆溝橋事件が起こった。新聞には大きな活字が並び、腰に鈴をつけた号外売りの小父さんが町中を「号外、号外」といいながら走った。号外を買った人のまわりには何人もの人が集まってのぞきこんでいた。やがてそれが支那事変となり第二次大戦へとつづくのだが、だれもこのときは先のことはわからず、ただ「支那をやっつけろ」と気勢をあげていた。  桐生では学校にいかなかった。夏休みに入ったせいもあったかもしれない。この桐生へ来てからの毎日の生活は、私にはまったく自由なときで、鎌倉での悲しいことを、しばし忘れての毎日だった。 〈雷電山の石器〉 暑い太陽が照りつけるなかを、新しい友だちについて町の西方にある雷電山に汗をかきかき登った。この山の上に立つと、桐生の街が一望のもとに見えた。マッチ箱をびっしりと並べたように見えてきれいだった。  山の上で、遊んでいるうちに、ふと足もとに土器の破片があるのに気づき、ひろいあげてみると、表に縄目の跡がついているではないか。それを手にしてなお付近をよく見ると、黒光りするガラスのような、矢の根石(石鏃《せきぞく》)もみつかった。  このとき、しばし忘れていた鎌倉の浄明寺の家の裏の工事場で妹とひろった土器片のことを思い出し、鎌倉でのありし日のことが思いおこされてくるのであった。  そして、この山の上にも遠い石器時代に生活をいとなんでいた、祖先の団らんの場があったのだなと幼な心にも感銘を受けるのだった。  八月になって、暑い毎日がつづいた。町の大通りに出征兵士を送る行列がますます多くなり、ときにはいっぺんに数人の応召者を送る行列がつづくようになった。どこへいっても戦争の話でもちきりとなった。  桐生にもやっとなれてきた日、父が、 「カツラ屋とはきもの屋とどっちがいいか」  と聞いた。私は少し考えて、 「はきもの屋がいいや」  と答えた。  はきもの屋といったのには、理由があった。カツラ屋は、芸人に深い関係のある仕事だ。私は芸人はいやだったので「はきもの屋」と答えたのだ。  父の親類はみんな芸人だった。父もその一人である。父が芸を職業としていたがために、一家別れ別れになって、母もいなくなってしまったのだと考えていたので、「カツラ屋」みたいな、芸人に深い関係があるところへなんぞいってたまるものかと心にきめていたのだった。  そして、小僧奉公にいくのだということを聞かされても、しかたのないこととあきらめていた。ただ学校へさえいければよいとばかり思っていた。  それからまもなく、父は、 「浅草のはきもの屋へいくのだよ。学校へもいけるし、よく働けばおいしいものも食べられる。お金ももらえるから」  といった。  八月十日、せっかくなれた桐生とも別れなければならなくなった。  東武線の新桐生駅から、電車に乗った。私の着替えの入っている行李《こうり》を父が背負い、私は、学校のカバンを大切に風呂敷に包んで持った。  電車の窓ごしに、このときはじめて、赤城山を見た。その雄大なすそ野を長く引いた姿は永く印象に残った。  私を乗せた電車は利根の大川の鉄橋を渡って、一路東京へ向かった。もう赤城山ははるか後方に去ったが、遠くに連なる山々が波のようにつづいて見えた。 〈浅草の観音さま〉 終着駅で下車すると、もう目の前に浅草の観音さまの五重塔が商店の屋根越しに見えていた。  仲見世を通り雷門に出ると、父は、 「おなかがすいただろう。何が食べたい?」  ときいたが、私はまわりの商店街を見まわすのにいそがしかった。 「よし、牛めしでもおごってやろう」  といって、「ちんや」と書かれたのれんのかかった店へあがった。 「ゆっくり、たくさん食べな」と父はいいながら、鍋に皿からいろいろとって入れた。私は、牛肉の煮たのが大好きだったので煮えるのが待ちどおしかった。 「おいしいかい、もっとあるよ」  といいながら、なべのなかに皿の肉を入れてくれる。  いまにして思えばこのときの父は、親子最後の別れの食事として、ささやかながら私へのおごりという気持ちで、ここへ連れてきたのであったと思う。  ひょうたん池の端を通り、六区の映画館街を歩いた。大きな白い鉄筋の建物がいくつも並び、それがみんな映画館なのにはおどろいて声も出なかった。色とりどりの映画の看板がきれいだった。なかでも、すみで黒々と白紙に「蘆溝橋の第一報ニュース上映」と書かれてあったのが印象的だった。  どこまでもつづくにぎやかな商店街のなかを通り、千束というところに出、筆太に桜川遊孝と書かれた表札のかかった家についた。  父があいさつすると、年をとった細面の、小柄な小父さんが「よくきたなあ」といいながら、話をはじめた。  正面にきれいにかざった神棚があり、そこに金色と赤色をした大きな獅子頭が白と黒の長い毛をたらしてかざってあった。小父さんはその前の箱火鉢のところに坐っていた。この小父さんが、当時お座敷で舞う獅子頭の使い手では東京一の芸を見せる人とは、ずっと後になってしったことであった。 「いろいろと苦労するね。これも時代の変わりでしようがないやね。笛はもっているのかい」 「これだけはね」  小父さんのことばに父は荷物の上に手をかけていった。 「いい吹込《きりこ》みをするのにもったいないな、この子にしこんだらいいのになあ——」  と話している。私はそばで、何を話しているのかさっぱりわからなかったが、ただ笛という言葉にいつも三本の笛を大切に持ち歩いている父のことを考えていた。 〈はきもの屋奉公〉 「よく話してあるから、いけばわかるよ」 と小父さんのことばに、父とその家を出てまたしばらく歩いた。馬道というところを通り、下駄や鼻緒やぞうりが所せましと並べられた店々の前を通って二天門通りのスズラン灯が並んでいるところに出て、一軒のはきもの屋に入った。  店で父はそこの主人と思われる小父さんとしばらく話していた。  私は父の後に、ちょこんとすわり、もってきたカバンをひざにしっかりかかえていた。  スズラン灯が昼間のように輝きはじめたころ、父は、 「元気でな、またくるから。店の人のいうことをよく聞いて働くんだよ。着がえは行李の中にはいっているから」といいながら、店の小父さんや小母さんにあいさつをして、スズラン灯の光の中に去っていった。  その夜、寝床に入ってもなかなか寝つかれず、鎌倉の浄明寺の家を出てからのこと、杉本寺のこと、鎌倉の叔母の家でのこと、また母や妹や弟たちはどうしているのかと、過去のことが頭のなかにあらわれては消え、また浮かんでは消えていった。そして一家団らんのころのことがいつまでも消えなかった。 〈箱膳の食事〉 翌朝三十センチ角、深さ二十センチくらいのふたのついた塗りの箱を渡された。ふたをあけると、なかに白と茶のどんぶりと茶碗、中・小の皿と箸の新しいのが入っていた。これが箱膳であった。  その箱膳で食事をすますと、 「ここがお前の荷物を入れるところだよ」  と階段下の三角形のところを開けてくれた。私は、もってきた荷物やカバンをそのなかにしまった。  小母さんは、 「これからは、洋《ひろ》どんと呼ぶからね。おじさん、おばさんでなく、だんな、おかみさん、と呼びなさい。これからは店の小僧なのだから、何ごとも家の人のいうことを聞いて、よく働かなければだめだよ」  というのであった。  店は、間口三間奥行き五間ほどの二階建てで、一方が横丁、一方は四軒ばかりが一つにつながっている建物、前は二天門通りで向こうは大きな病院、その後に浅草小学校のコンクリートの建物があった。裏には、浅草観音縁起に出てくる一つ家のお婆さん「姥ケ池」の伝説地で、石塔が二基ほどあった。  家族は、だんなにおかみさん、若だんなと二人の女の人と一人の男の子の六名に店員二人の合計八人であった。だんなは中肉でがっしりした人、おかみさんは小柄な人であった。ずっと後にわかったことだったが、おかみさんは、講談師の小金井蘆洲の数少ない子どもの一人であった。  店には、草履と鼻緒が、ところせましとおいてあり、製造卸し販売をやっていた。  こうして私の小僧生活ははじまった。まず「だんな、おかみさん」と呼ぶのがなんとしてもいえずに困った。またさっそく自転車に乗れなければと、店が閉まってから隅田公園や、店の前の通りで練習をした。学校へいけると思ったのが学校どころではなかった。食べ物までまったく差別される生活となった。  私のこれまでの境遇で、働くことはなんとも思わなくなっていたが、差別をされることはまったくくやしかった。  秋風が立つころには、ラジオや新聞は、さかんに中国戦線のニュースを報じ、何人かが集まれば戦争と召集の話でもちきりであった。九月に入ると、陸軍部隊の上海敵前上陸のニュースが伝わって、見るもの聞くことすべてに戦時色が濃くなってきた。  仕事はなにごとも新しい経験ばかりで、ふなれなことの連続だった。毎日が夢中だった。だんだんに、草履のつくり方も教えられたが、よくできぬといっては叱られた。  年の暮れがせまると、ますますあわただしくなった。店にきてすでに四ヵ月あまり、仕事にもなじみ自転車で使いに出るようになって、毎日毎日忙しく働いた。 「わが軍南京総攻撃」と大きな活字が新聞に出て、十二月十三日には南京陥落で町は沸き立ち、つづく入城式のニュースでそれが最高となり、祝南京陥落と筆太に書かれた垂れ幕がさげられ、夜になると町内の提灯行列がつづいた。  あわただしく動く戦況の話の渦のなかに、昭和十二年は暮れていった。 〈夜学に通う〉 正月の十五、十六日のやぶ入りは、小僧や奉公人にとって楽しく、うれしい休日であった。小僧となってはじめて迎えたその日、私も仕着《しき》せとして、ジャンパーと綿の長ズボンをもらった。しかし、これを着て外へ出るのが、なんとしても照れくさく、同じ年ごろの子どもが学生服で歩いているのを見ると、なんともいえぬ気持ちとなるのであった。  店の休日は月二回で、第一日曜と第三日曜であったが、新参の私は、かろうじて第三日曜の午後三時間ばかり、浅草へ遊びにいけるくらいがせいぜいで、後は、留守番や洗濯で終わってしまった。  それでも、三月になって、 「学校へいけるように手続きをしてきたから、四月からいくように」  とだんなにいわれ、うれしさ、たのしさでいっぱいとなった。  さっそく、自分のコウリから八ヵ月ぶりにカバンを出し、そうじをしながら、東京の学校にはどんな友だちがいるかなど、考えるのだった。  ところが学校にいく日が近づくと、おかみさんから、 「小僧のくせにカバンなんかしょっていく者はない。本はこれに包んでいきな」  と縞の木綿ぶろしきを渡された。服はジャンパーに長ズボン、はきものはぞうりでいくことになった。当時、学生は鎌倉や東京ではほとんどが半ズボンと決まっていたので、がっかりしたりはずかしくなったりで、さみしさが心にわいた。それでも学校へさえいって勉強できればと、その日の来るのを楽しみにしていた。  いよいよ新学期となり、若だんなに連れられて、学校に出かけた。  学校は店から、自転車で十五分ぐらいの泪橋の近くの石浜町という所にあった。正徳尋常小学校といい、そこの夜間部に入学したのである。  学校通いは鎌倉を出て以来のことで、私は今度の新学期に六年として入るわけであったが、ここの夜間は二期にわかれ、一年間に、五年、六年の科目を終えさせるように便宜が与えられているのであった。授業は夕方六時から九時まで、二組あって、一組二十人ぐらいであった。  通ってくる生徒は事情で昼の学校にいけなくなった者だの、なかには中国や朝鮮の人もいて年もまちまちだった。  私の学校いきの姿の夢は完全に消されてしまった。しかし、同級の仲間がみんな同じような姿をしていたので、一面安心もした。この同級生たちは、登校するとみんな仲がよく、それなりに勉強にはげんでいた。  学校での勉強のことや友だちのことは、店に帰ってからは、ひとことも話すことはできなかった。学校だの勉強だののことをしゃべると、店の人はみんなきげんが悪くなるのだった。それで、学校であったことはすべて自分の心の中にしまっておくようになった。  予習や復習は、店の仕事が終わった十二時すぎにやった。それも、電気がもったいないと消されてしまうので、店の欄間からさしこむ通りのスズラン灯の明りや、ときには自転車につける四角いランプを、床の中にもちこんでやった。  昼間の仕事で疲れてそのまま寝こんでしまい、このようなときにかぎって起こされるので、それがばれて、大目玉を食い、朝食ぬきにされたこともしばしばだった。  だが、それでも学校は私のいこいの場であった。 〈十銭玉ひとつ〉 五月のこいのぼりが姿を消すと、十七、十八の両日は、浅草寺の境内の三社さまの夏祭りだった。  店に来て一年近くなっていたので、月二回の休みの日は、どちらか一日は外出してもいいことになった。  はじめてのこづかいとして「つまらない物を買わないで貯金するんだよ」と、講釈つきで十銭玉ひとつをもらった。その十銭をふところに、浅草の観音様へ遊びに出かけた。六区の映面館街に行く途中の道ばたには、いろいろの露店が並び、色とりどりの売り声やしぐさで客を引いていた。  まるい円陣に客を集めたガマの油売りも出ていた。その一軒一軒を見て歩くだけで、半日は十分おもしろくすごせてしまうのであった。  その露店を見て歩いているうちに五重塔の前に出た。その前には、二、三人の人が立ったりしゃがんだりして品物を手に取って見ていた。それは骨董品を並べて売っている店で、たくさんの種々雑多な物を並べた古道具の中に、六十近いゴマシオ頭のおやじさんが坐って、キセルでタバコをすいながら、だまって客の品物をいじる様子を見ていた。  なんの気なしにそこをのぞくと、石のやじりがボールの板に十個つけられたものと、三個ほどの分銅形をした石斧が並んでいるのが目に入った。  私はしゃがんで、その石の斧を手に取ってみた。たしかに石斧であった。やじりの方は、ボールの板にぬい止めてあったが、いろいろな石でできていてきれいだった。黒く光る、ガラスのような黒曜石でできているのもあった。  ながめているうちに、つい生活の変化と仕事の忙しさから忘れていた鎌倉でのことや、桐生の雷電山でひろったやじりのことなどが思い出され、なつかしくなってきた。  しばらくながめてから、そのおやじさんに、 「これいくら」  と聞くと、やじりの方は五十銭、石の斧は三十銭だといって、またキセルを口にくわえて、うさんくさそうに横目で私を見ていた。  私はだまって手にとったり、おいたりして、ながめつづけていた。  なんとかしてほしい。しかし、ふところには十銭だけしかない。このことを頭のなかでくりかえしながらながめていた。  どれほどの時が流れたかわからなかったが、急におやじさんはいった。 「その斧がほしいのかい」 「う、うん」 「それは三十銭だよ。いくらもっているんだね」  私はちょっととまどった。 「十銭だ」 「十銭じゃしようがねえなあ」  と、おやじさんはいってまたしばらくだまっていた。  しばらくすると立ちあがってきて、 「これでよかったらもっていきな、やるよ。遅くなるとだんなにおこられるぞ、もう店をしまうから。天気ならばいつでも出ているからまた休みの日にでも来な」  といって、石斧を手に渡してくれた。このときのうれしかったこと! いまでも忘れられないことの一つである。  石斧をふところに、意気揚々と、いい気持ちになって店に帰ってきた。  夕食後、おかみさんが、 「今日はどこへ遊びにいってきた?」  と聞くのでまず今日の古道具屋のことを話し、だいじにポケットに入れてきた石斧を見せると、とたんに、 「だからつまらないものを買ってこないで貯金しろといったのに」  と、おこられてしまった。かえすことばも出ず、石斧はそのままそっと私の荷物のなかに入れた。そのなかには桐生で拾った石のやじりもしまってあったのだった。  それから数日して、私は石斧と石のやじりを学校にもっていき、組の友だちに見せたり、先生に見せた。 「君は珍しい物を持っているね」  と先生はいいながら、その時間は大昔の話をしてくれた。 「こういう石器や土器は上野にある博物館に陳列してあるから、お休みのときにでも行ってみなさい」  と先生は博物館を教えてくれた。  ちょうど店の下職人の家が鶯谷にあり、よく使いに出かけたので、そこで博物館への道順を聞いた。使いの帰りに鶯谷駅の陸橋を渡って行ってみたが、あまり大きい建物なので、私のような者が行く所ではないような気がして、そのときは塀ごしに見ただけで帰ってきてしまった。  中国での戦争のニュースは、日に日に新聞全面をうめていった。西住戦車隊の勇敢さは、学校で聞いたりラジオで知っていたが、その隊長戦死のニュースが広がったと思ったら徐州が陥落したことが伝わり、やがて「徐州、徐州と人馬は進む……」の「麦と兵隊」の歌が町じゅうに流れた。  そして六月の中旬をすぎるころから、だんなは物資が統制されるというので、綿糸や綿布の買いおきを店の人たちと相談していた。六月末になると、綿糸がまず使えなくなり、代わってスフや人絹の糸が出てきた。綿糸とちがって、スフや人絹の糸はミシン糸に使うとすぐ切れるので、綿糸の人気は高まり、買いおきに夢中だった。  やがて戦争物資動員のため軍需品以外のものに使えない物がつぎつぎと発表になった。綿製品は移動禁止となったため、綿布でこしらえた品物を動かすのにひと苦労となった。それらを店の奥へしまったり、多い仕入品は下職人の家へ預けたり、移動するときにはとくに神経を使うようになっていた。  人々の姿や生活のうえにも、商売のうえにもまた商店に並べられた品物にも、戦時色はいよいよ濃くなっていくのであった。    古代へのあこがれ 〈帝室博物館〉 年内最後の休日、私は思いきって上野へでかけた。店の表のほうの広い道路を約三十分ほど、下谷を通り鶯谷駅の陸橋を渡って、途中に大きな石灯籠がいくつも並んでいるのを見ながら、上野博物館の横手から表に出た。博物館は左右に長くのび、その正面を見せていた。  門を入ると前に泉水があり、その向こうに石の広い石段が数段あって、四本のとてつもなく大きな石柱がすっと高くのびていた。  私のような格好をした者は一人もなく、みんなきれいなきものや服をきているので気が引けたが、勇気を出して建物の中に入った。  最初のへやに入ると、ガラスの大きなケースに、埴輪《はにわ》や大きな土器があった。  順路にそって見ているうちに、私は自分の目をうたがうくらいおどろいてしまった。自分が、コウリのなかにもっているやじりや斧とまったく同じ形をしたものが、この立派な博物館のなかにいくつも並べてあったからだった。  私は息をつめて凝視した。  石斧や土器を初めて手にしたときの鎌倉でのことや桐生でのことが、走馬灯のように頭のなかで回転するのだった。 〈数野さんとの出会い〉 考古室のなかを一めぐりしてまた、石器の並んでいるケースの前に立ち、それをながめていた。  すると、立ちつくす私のうしろから、「もう閉館ですよ」と話しかけてきた人があった。 「こういう遺物が好きですか」  ふりかえってみると、若い守衛さんだった。親しみあるその守衛さんに、いろいろと石器のことをきいたり、当時の人の生活についても聞いた。もちろん、私のもっている石器についての話もした。  するとその守衛さんは、 「私の家は浅草の石浜町なので、君の通っている学校から近い所だから、店の休みの日にでもぜひ遊びにいらっしゃい」  といって、手帳に、道順と数野甚造という名前を書いて渡してくれた。 「ではこれで閉めますから」ということばに、順路を書いた紙を大切にポケットに入れ、館を出た。ふりかえってみると、夕ぐれのなかに今は親しいものとなった博物館の建物が白く浮かびあがって見えた。  商店の年の暮れはとくにあわただしい。そのあわただしさのなかに、さらに、中国での戦争のニュースが伝わってよけいあわただしく昭和十三年が過ぎていった。  この店につとめ二回目の正月のやぶ入り十五、十六日が来た。その日の来るのがうれしいことは、いつでも変わりがない。  このとき出された仕着せは、縞木綿の着物に角帯、鳥打帽子であった。しかし、これらは、新しく買った物ではなかった。店の奉公人のために、早くから用意されていたものだった。  このときの休みには、奉公人の服装は、大半が小僧はジャンパーにコールテンの長ズボンという姿が多かったので、私は着物姿で外へ出るのに照れてしまった。隣の店の旦那《だんな》が来て、 「いい若い衆になったじゃないか」  とひやかし半分でいうので、ますます固くなってしまった。  このやぶ入りには、近隣の小僧仲間と九段の靖国神社に行った。帰りに神田に出て古本屋をのぞいて歩いた。神田駅の近くにくると、商店という商店の店先はたいへんな人だかりであった。とくにラジオ屋の前はすごいくらいの人だかりであった。大相撲春場所四日目で、双葉山の七十連勝なるか否かで、実況放送を聞こうとする人たちであった。  楽しい二日つづきの休みが終わると、また仕事に追いまわされるのだった。  二月に入ったある日、学校の授業が先生の所用で早く終わったので、いつかの図を見ながら数野甚造さんの家を訪れた。数野さんはちょうど非番で在宅していた。 「よく来たね、寒いだろう。あがって火にあたりなさい」  と数野さんは私をあたたかく迎えてくれた。  数野さんはいろいろの本やパンフレットなどをひろげながら、博物館のことや遺跡、遺物の話を聞かせてくれた。そして若い奥さんがごちそうをつくって出してくださった。 「いつでもいいから、自分の家と思って遊びにいらっしゃい」  ともいってくれた。  石器や土器の話を聞いたのも楽しかった。しかし、それよりいっそううれしかったのは、遊びに行ける家ができたということであった。それからは、小僧の身の苦労はあっても、休日が楽しかった。 〈小豆沢《あずさわ》の土器〉 数野さんのお宅を訪ね、そこで聞いた古代人の生活の様子は、私の心をひきつけた。私は借用してきた本をひまをみてはむさぼり読み、古代へのあこがれをますます深く抱くようになった。  そして、一度大むかしの人びとが生活していた場所(遺跡地)に行ってみたいと考えるようになった。たまたま板橋区志村の小豆沢《あずさわ》から、新しく発見された土器の写真と解説が、数野さんからいただいた博物館の陳列目録に出ているのを読んだ。板橋なら行って行けぬことはないと考えたが、なかなかその機会がなく、やっと九月末日の休みに出かけることができた。  その日、店の自転車で三《み》ノ輪《わ》から新三河島のガードを通りぬけ、王子に出た。このあたりまでは、ときどき店の使いにきたことがあるので道順は知っていた。  それから先の飛鳥山《あすかやま》から板橋区志村に出る道は、はじめてだったので、聞きながら走った。二時間くらい走りぬいて何回目か道をたずねた家で、 「凸版《とつぱん》印刷という新しくできた大きな工場のある付近が志村というところだから、そこを目標にして行きなさい」  と教えてくれたので、その工場を目当てに走った。  そのころ、志村付近は街道(中山道《なかせんどう》)に面したところには、商店が並んでいたが、裏のほうヘまわると畑ばかりで、色づきはじめた陸稲《おかぼ》や青々とたてじまのようにつづく大根の作並みがひろがり、そのなかに真新しく切り開かれた道路が、赤土のはだをあらわしていた。  やっとのことで凸版印刷工場の門前に着いた。横丁を曲がって工場の裏側にまわり、畑道を走りながら、遺跡のありそうな場所をさがし歩いてみたが、皆目見当がつかず、いきあった何人かの人に聞いてみたが、みな知らないという。せっかくきたのに残念に思ってなおもさがしてみたがだめだった。  あきらめて帰ろうと思い、凸版印刷工場の長くつづいているコンクリート塀にそった新道を走りながら、ふと見ると、畠のなかに新しくできた一軒の家があったので、水をもらいたいと思い、立ち寄った。  声をかけると、家のなかから主人らしい人が出てきて、 「水ならそこの横に井戸がある。いま水のみを出してあげるから」  といって茶わんを出してきてくれた。 「何しにきたのだい」  と聞かれたので、私はいった。 「むかしの人が住んだあとの遺跡をさがしにきたのだけれど、見つからないので帰るところです」 「学生さんかい」 「ちがいます。浅草のはきもの屋にいます」 「小僧さんか、小僧のくせに変わったことをするもんだな。……浅草からではたいへんだったろう。ちょうどサツマ芋がふけているから食べていかないか」  と奥に入ると、皿の上に五、六本の芋をもってきてくれた。  そのサツマ芋のにおいが、昼食をたべていない私にはなんともいえない。それでも遠慮しながら食べたが、じつにおいしかった。その家のおかみさんらしい人も出てきて、いっしょに芋を食べながら、 「むかしの人が住んだといえば、家《うち》の裏の畑を掘ると、貝がらがたくさん出てきて、そのなかから焼きもののかけらも出てくるわよ」  といいだした。それを聞いて私はびっくりし、もしかすると本で読んだ貝塚の貝ではないかと思った。 「どんな焼きものが出るのですか」  と聞いてみると、 「いくつか出てきたものをとっておいてあるはずだ」  つみあげてあるたきぎの下のわずかばかりの間に手を入れてさがしてくれる。私も後についていってさがした。そのうちに「あった、あった」といいながら、泥によごれた土器のかけらを井戸端で洗ってくれた。  ひと目見て、縄文土器の破片であることが私にはすぐわかった。私はうれしさのあまり、それを手にして何度もなでまわし、ながめつづけた。土器のかけらは三十センチくらいの大きさで、表面に縄目の跡がはっきりあり、その上に細ひもを二本から三本並べてはりつけたような模様までついていた。 「ほしければあげるよ、掘ればまだ出てくるだろうから」  とおかみさんはいってくれた。私はそのことばに、うれしさをかくしきれず、「ありがとうございます」と何度も礼をのべて、大切に風呂敷に包み、なお土器が出るという畑につれていってもらった。  そこは、家と工場にかぎの手にかこまれ、一方は新しい道路に面していた。さして広くはないその畑には、ナスやトマト、サツマ芋などが植えてあって、もう盛りをすぎてなかば枯れたトマトの枝に、とりのこされたのがまっ赤にうれていたのが印象的だった。地表面にはまっ白な貝がらが点々と見えていた。  ここに、数千年前、大昔の人びとが生活していた跡があると思うと、私は感無量だった。きてよかったと思った。大自然のなかで、石器や土器を道具としながら、家族団らんの生活を送っているさまが、おとぎの国のように私の頭のなかに浮かんでくるのであった。気がついてみると、時間が意外にすぎてしまったので、急いでその家の人と別れて帰りを急いだ。  帰りのペダルは軽かった。途中からもう日は落ちて、街路灯のあかりが輝きをましていた。  帰途、数野さん宅に立ち寄り、土器を見せながら、その日のことを話した。数野さんはなかばあきれ顔で、土器を見ながら、 「これはいい破片だ。さっそく館の神林先生に見てもらってあげよう」  といってくれた。  帰る時間があまりおそくなってしまったので、急いで店へ帰った。帰りつくと、たちまち「いまごろまでどこへあそびに行ってたのだ」とどなりつけられ、夕食はぬきとなってしまった。  結局、この日は朝食と板橋でいただいたサツマ芋でがまんせざるを得ないことになってしまったが、私には少しも苦にはならなかった。板橋へは十一月末の休日に再び訪れ、そのときは畠の一角を掘らせてもらった。そして貝がらの層の下から、四十センチくらいの大きなカメの半分ほどの土器片を自分の手で掘りだしたのだった。  再び数野さん宅を訪れたとき、先にあずけた土器片は、縄文文化の前期末|諸磯《もろいそ》式という土器の破片であるとの神林先生の話だとのことで、土器片の裏に、えんぴつでそのむね書きこまれてあった。  その後、板橋へは年があけて十六年の春にも行ったが、このときは「先日大学の学生さんたちがきて掘ってしまったのでもう出ない」と聞かされ、がっかりして帰った。これが東京で遺跡をたずねた最後となってしまった。  戦後間もなく、桐生市の周辺や赤城山麓の先史時代遺跡を調べはじめたとき、桐生市の菱町金屑《ひしまちかなくず》というところで、縄文時代の住居跡からはじめてそのころの土器を発掘した。それがなんと小豆沢での思い出の土器片とまったく同じ模様のものであった。それを手にしたとき当時をなつかしんだのはいうまでもない。  また後になって、ご教示をいただいている芹沢長介《せりざわちようすけ》先生や江坂輝弥《えさかてるや》先生、また故|後藤守一《ごとうしゆいち》先生にお目にかかった折りの話から、小豆沢の貝塚を発掘されたのは、先生方だったと知ったときにはびっくりしたものである。人間生活のなかのすれちがいというものはまことにふしぎなことで、運命のいたずらというよりほかない。あのときもしも発掘調査中のところへ私が出かけていたならば、先生方にすでにお会いしていたはずだった。私はいまでもそのことを思うことしばしばである。すれちがい、すれちがいしながら歩みつづけ、そしていつか消えていくのが人生というものなのだろうか。  たまたま、すれちがうときにぶつかり、語り合うことができたとしたら、そのときの物語こそ、思い出といえるかもしれない。  私が当時、板橋区志村小豆沢の遺跡に出掛けたのは、調査とか研究とか勉強という目的があったわけではなかった。そこで採集した土器片すら、みだりに持ち帰ることのできない身分だった。  ただ小僧という身分の私の心のさびしさ、父母兄弟への思慕をいだきながらも、それが求められなかった私には、遠い過去の人たちの生活の場にそれを求め、心をいやしてきたにほかならなかった。  そして、この私の心は、現在、赤土のなかの旧石器時代文化を解明していくときにあっても、その赤土のなかにのこされた祖先の体臭に、より深い追慕の情を求めつづけているのである。   海軍志願    戦争へ突入 〈青年学校へ〉 三月、期間は短かったがたのしい思い出を多くのこし、学校を卒業した。  三名が褒状と字引きをもらった。私もそのひとりに入っていた。卒業式のあと、学校近くの紀ノ国屋という餅菓子屋で、ささやかな別れの茶話会をやった。  別れぎわに、気のあった五名の友だちが、だれいうとなく写真をとろうということになり、写真屋に行った。この写真は、卒業記念の写真とともに、その当時を思い出させるただ一つのものとなった。  いろいろの別れ、それぞれにその理由、事情は違うにしても、人間というものは、どうして、こうも別れという場にぶつからねばならないのかと、哀しい思いをかみしめた。  いよいよ学校も終わって、店での旦那の仕込みもきびしくなった。父は、二、三回訪れてきたが、どうしたのかそれきり来なくなった。  このころになって、ようやく自分の置かれた環境と立場を知るようになり、ただ旦那のいうがままに、無心に働きに働いた。  もう学校で勉強することもないと考えていたところ、七月に青年学校が義務教育となり、ふたたび校門をくぐることができた。浅草の富士青年学校普通科一年に入学した。働いている者という点ではみな同じだったが、こんどは大半が昼間の小学校を出た者ばかりで、店員もいたが、自分の家の家業をつぐために働いている者が多く、勉強にも、気合いがかかった。  また当時、国民徴用令が決まり、軍需産業にたずさわる者以外は、徴用に引き出され軍需工場に入れられるというので、学校でもたいへんなさわぎだった。 〈戦時色強まるなかで〉 昭和十六年、十七年と年がすすむにつれて戦時色は濃くなり、物資も統制がきびしくなってきた。店を閉める者まで現われ、企業は軍需関係のものへかたよっていった。  小僧の同輩も一人減り、二人減りして、ある者は白紙召集の徴用で軍需工場に、またある者は帰郷して軍関係の産業にと転向していった。  昭和十八年、さびしくなった三社さまの夏祭りを最後として、七月初旬、青年学校の先生や旦那のすすめもあって海軍に志願することとなり、桐生へ一応帰ることにした。  帰ることが決まってから、数野さんの家に最後のあいさつに行った。数野さんは国民服に身をかため、奥さんはモンペ姿で、長男の泰享《やすつぐ》ちゃんは乳母車の中でねむっていた。  いままた私は別れということにぶつかったのであった。心にふたたび悲しさ、わびしさが、ふつふつとわき出してくるのを私はとめることができなかった。  旦那の心づくしの国民服を着て、浅草からひとり東武線の電車に乗った。車内は戦禍をのがれて疎開する家族、またすでに疎開した家族に面会に行くらしい国民服と戦闘帽に身をかためた人たちでいっぱいだった。東京に出てきたときの車中とはまったく変わっていた。色とりどりの人間を乗せた東武線の電車は、発車するとゆっくりと浅草松屋の構内から出て、隅田川の鉄橋を渡り速度をあげた。浅草の観音様と五重の塔があいかわらず花川戸の商店街の家並みの間からひときわ高く見られた。 〈こわされる織機〉 桐生に帰り、父のもとに一応落ちついた。きのうまでは、朝から追いまわされるように働く毎日だったので、父のもとに落ちつくと気ぬけがしたような数日がつづいた。  町の朝は、太田の中島飛行機工場と町中の軍需工場に通勤する人びとでいっぱいだった。いくつもある織物工場はみな軍需工場に転換されていた。  織物の町を象徴し織物の原動力となった歴史ある機械が、無惨にもとりこわされ、かたづけられて各所に山づみされ、鉄類は供出されていった。  私は、織物整理工場を改装した、防毒服を製造する工場に特殊ミシン担当としてかよい、北青年学校の本科三年に転入した。そして同時に陸軍少年戦車兵と海軍志願兵に応募した。 〈石斧との対面〉 伝わってくるニュースは、日に日に一喜一憂の戦況を放送し「勝つまでは」の合いことばで人々はただひたすら働いた。  工場の仕事にもなれて、暑い夏の日盛りも、そのなかにどことはなしに涼風が伝わる九月の初旬、工場で防空壕掘りの作業をしていた。  そのときふりおろしたツルハシの先に一つの石があらわれた。手にとってみると、それがなんと分銅形をした石の斧であった。  このとき、この場所にも大昔の人びとの生活の場があることを知った。あわただしい毎日ではあったが、私にはこの石斧との対面は、かすかに吹きくる涼風よりもすがすがしさを与えてくれた。この斧を中心に三時休みのひととき、なかまの人たちに、これが大昔の人びとが使った石の斧であると話した。この話を聞きながら、ある者はびっくりし、ある者は感心し、「よくもこんな石でものが切れたなあ!」と手に握ったり、打ちおろすまねをしたりして話すのだった。  そのときにお茶を飲んでいた金子熊吉さんという人が、 「そういうのならおれがいま開墾している裏山の畠からたくさん出てくる」  といいだした。このとき私は、久しく忘れていた大昔の人びとの生活のありさま、過ぎし日東京の小豆沢に遺跡をたずね、そこに立ち、土器片を手にしたときの感激を、ほうふつと思い出すのだった。  数日して非番の日に、私は金子さんの家をたずねた。桐生川を渡り、工場からは東の対岸の丘のふもとに金子さんの家があった。すぐに裏山に案内してもらった。開墾途中のところに行ってみた。そこはやや小高い台地の上で、働いている工場や桐生の町がよく見えるところだった。掘り起こした木の根の間に、土器のかけらといろいろな形をした石器がまとめられて置いてあった。その土器の模様を見ると、なんと私が小豆沢の四枚畑貝塚で手にした土器片とまったく同じ模様がつけられているのであった。  この地にも、小豆沢と同じ時代に大昔の人びとの生活の場があることを知り、感慨無量であった。このときから、私は、非番や休日にはその台地に立つことが楽しみになった。  やがて、秋も深まりますますあわただしさを増した防毒服づくりの作業に、その日その日を送ったのであった。 〈海軍から採用通知〉 志願兵受験のための予備学習が学校であったので、工場が終わるとかよった。  山国のせいか、桐生から海軍に志願兵として応募する者は比較的少なかった。私が海軍に応募したのは、横須賀に行けば隣には鎌倉という故郷があるということが、心のなかに強く残っていたからだったろうと思う。  昭和十九年二月末、海軍から採用の通知がきて、入団は五月二十五日と決まった。  三月末日で工場はやめ、出発時に必要な食糧と若干の金を得る必要から、郊外の農家に手伝いに出た。仕事は主として、麦の手入れであった。近くに生品飛行場があり、二枚翼の練習機、いわゆるアカトンボがはげしい離着陸の練習をしていた。  四月に入ると、空には飛行機にまけじと、ヒバリがさえずりながら飛んでいた。だんだん大きくなってきた麦の|さくたて《ヽヽヽヽ》はきつかったが、十時と三時に、あぜに腰をおろして食べる焼き餅の味はまた格別だった。  五月五日、端午の節句を過ぎて家に帰り、入団の準備にとりかかった。これが最後になるかもしれないと考えると、むしょうに鎌倉を訪れたくなり、一日都合して鎌倉に出向いた。  まず最初に浄明寺の家に行ってみた。生け垣越しに見る旧わが家は昔のままだった。しばらくそこに立って見ていると、私の脳裏にはたのしかった日々が走馬灯のように浮かんでは消えた。浄明寺を訪れ、妹の霊前にお経をあげてもらい、それから杉本寺を訪れたが、お世話になった和尚さんは他寺へ転出し、無住となっていて、本堂の扉は固くとざされていた。旧師尾尻隆次先生からは、先生に託された母の最後の手紙を受けとった。  桐生に帰って最後の準備にはいった。小僧のとき主人からもらった何着かの着物は、お世話になった近くの小母さんにあげ、友だちからの手紙、ノート、日記類はすみずみまで何回も読みかえしてから火にくべた。ボーッと燃えたち、黒から白へと灰になるのを見ていると、じいんと胸がしめつけられた。  第二小学校と青年学校の帽章、母の置き手紙、友人からの手紙は爪と髪の毛といっしょに桐の長箱に入れ、その隅に分銅形の石斧も入れた。これは私のせめてもの形見として残しておきたかったのだった。  出発の前日ひとりで赤飯をたき、大切にとっておいた油でキンピラもこしらえた。隣の小母さんが、気の毒だといって、子どもづれで来て手つだいながら、ひとこといっては目をふいていた。  五月二十三日、隣組の人々に送られて集合地高崎にと出発した。いく先々でバンザイ、バンザイの声が耳に入ってきた。 〈横須賀武山海兵団〉 五月二十五日、横須賀武山海兵団に入団した。相模湾に面した入り江の周辺の山を切り崩して埋め立てた所に、新しい兵舎が並び、一部建築中の場所もあった。  入団者は、関東を中心に、東北・甲信越などから集まった、十五歳から十七歳ぐらいまでの者たちであった。  みんな、入団できたことで勇んでいたが、二日、三日と過ぎると、精神棒と呼ばれる一メートル余の丸棒で追い回され、夜になると班ごとに並べられ、「きさまたちは、紙一枚で何人でも集まってくるのだ」と気合いをかけられて、すっかり震え上がってしまい、なかには、家に帰りたいと泣き出す者までいた。  はじめは、そのような状態であったが、日が過ぎるにつれて、諦めたのか、兵団の生活に慣れたのか、あいかわらず追い回されながらも、訓練にはげんでいた。  三ヵ月余りが過ぎ、江ノ島の近くの片瀬海岸から辻堂にかけての連合大演習を最後に訓練は終わり、いよいよ実戦部隊に配属が決まる日がきた。  入団当時は、あれほど子どもっぽかった者も今では、帝国海軍の軍人の仲間に入ったことで、胸をふくらませるのだった。  張り出される配属先の表示を見ながら、一喜一憂した。艦船部隊に配属される者はみな喜び勇んでいた。戦艦大和や航空母艦に配属が決まり、羨ましがられる者もいた。実戦部隊となると、艦船勤務が大の望みの者ばかりであった。 〈筑波海軍航空隊に配属〉 私は、茨城県筑波山東麓の、常磐線友部駅近くにあった筑波海軍航空隊に三名ほどの同年兵と一緒に配属と決まった。  航空隊での最初の仕事は、内務班勤務付となり、練習機の飛行に必要な天気図の報告だった。  一ヵ月余りして、飛行場滑走路拡張工事のため、砂利を久慈川から採集するので分遣隊が出ることになり、二十名余りの兵隊に私と同年兵が二名加わり、兵長が隊長となって出発した。  現場は、水戸から常陸太田行の額田という所を流れる久慈川の河原で、砂利を取り、貨車につみこんで送るのである。  ところが、これがたいへんなことだった。連れて行った兵隊はすべて第二国民兵で召集されてきた者ばかりである。みんな妻子があり、なかには孫までいる者もいて、世間の裏も表も知りつくした者ばかりなのだった。  この兵隊たちを指揮し監督することになったのである。ちょうど、子どもと親くらいはらくに差があるのだから、まったく困った。ひどいものだった。  へたなことをいおうものならたいへんである。なんとか作業はすすめねばならぬし、風紀は乱すわけにはいかない。階級の差から監督という役目であったが、このくらいたよりないことはなかった。  このときふと思い出したのは、浅草にいたとき、旦那からつねづねいわれた言葉だった。 「頭を上げるな。常に自分を下におけ。相手を笑顔で見つめ、心に隙をもたずに行動せよ」  私は、このことばを極力実行に移した。さいわいにたいした事故もなく、また作業も順調に進行していったので安心した。  ただなんとも手を焼いたのは、民家に風呂をもらいにいき、一ぱいやって帰ってきてから、飲んだ勢いで、国に残した妻子のことや、戦争を呪うことばを、長々と聞かされることだった。  まるで、父親からお説教されているみたいなかっこうとなり、これには怒ることもできず、また私の心にも郷愁を起こさせてしまうのであった。  こんな日をくりかえしていたとき、作業中に意外なことが起こった。  新しく砂利を引き上げる、トロッコの引き込み線を作っているとき、人骨と刀が出たとの報告があった。急ぎ現場へ行ってみると、なんと、小さいながら古墳であった。ちょうど作業も一区切りついたので、三時すぎ作業止めを伝え、全員で掘った。  おそらく私が監督としての技倆を最高に発揮できたのは、このときくらいだったろう。  たちまち発掘は終わり、整地されたが、兵隊の中には古墳だと知った者もいて、にわか坊主が現われるしまつであった。  予想外な発掘までして三ヵ月余り、筑波おろしが吹き始めたころ、作業を完了して本隊に引き上げ、分遣隊は解散した。  年の瀬が近づいた十二月二十五日すぎ、待望の艦船勤務のため、横須賀へ転勤の命令が来た。  師走の風のなかを筑波航空隊と別れ横須賀にと向かった。 〈駆逐艦「蔦」〉 横須賀に着いた私たちは、鎮守府で、駆逐艦「蔦」の艤装員付となり、山すそのふところに繋留されていた「蔦」に乗り込んだ。艦内では大勢、工廠の工員がいて最後の各部の仕上げにあわただしかった。  艤装とは、艦《ふね》があるていど完成し最後の仕上げをすることで、艤装員というのは、武器の搭載準備を主とし、一般工員にはできない軍の機密に属する仕事をやる兵隊のことである。  したがって、乗り組んで作業する工員にいろいろと注文してやってもらうのであった。  ところがある日、主として大工部門を受け持っている工員さんが、 「兵隊さん、お願いがあるのだが」  という。聞くと、酒保で酒を買ってくれないかという頼みに、おやすいことと引き受けた。  艦の場合、兵隊ならば、ある程度は自由に酒が求められたし、酒保係がたまたま同年兵だったので、都合よくわけてもらえた。二、三回買ってあげるうちに、 「兵隊さん、下宿は決めましたか」  ときくので、 「まだです」  というと、 「どうです。広くはないが家《うち》でよかったら来ませんか」  という話に、私は喜んでお願いした。  休日の上陸日、紙に書いてもらった地図をたよりに、その工員さんの家を訪れた。  工員さんの奥さんは田浦にある徴用工員の寄宿舎の舎監をしているとかで、このときは宿直で不在だった。このときは日帰りの休暇だったのでお茶をのみながらしばらく話をし、帰りに銭湯に入って帰艦した。こうしてこの工員さんと親密になり、休みというと必ずたずねた。たたみの上に足をのばして休めるのが楽しみだった。 〈母との奇《く》しき再会〉 三回目の上陸には一泊がゆるされたので、酒をみやげにたずねた。ちょうど小母さんも在宅していて、ほかにもう一人の兵隊が来ていた。  夕食は小母さんの心づくしのごちそうで、にぎやかに雑談した。  そのとき小母さんが、 「今度の休みにでも鎌倉へ行ってきませんか」  という。 「鎌倉は子どものころ住んでいたので知っています。しかしあまり行きたくない」  というと、 「鎌倉のどこに住んでいたのですか」  ときく。 「浄明寺です」 「名前は……」 「相沢です」  小母さんは一瞬驚いたようだったが、それっきり、みんなでほかの話に移り、その夜は床についた。工廠で作業する造船の打鋲の音が、とぎれとぎれに夜ふけまで聞こえていた。  あくる朝、私は九時帰艦のため、八時すぎに帰途についた。  小母さんは、 「私も用事があって、鎮守府の近くまで出かけるのでいっしょに行きましょう」  と、横須賀駅前へ出た。  ゆきあう者はお互いに手を上げ敬礼を交わしながらいくのだったが、上等水兵の私には上官が多く、手の上げ下げで忙しかった。  鎮守府正門近くなったとき、小母さんが、突然立ちどまり、 「洋《ひろ》ちゃん、元気で大きくなったね……」  といったまま目をおさえてしまった。  私はびっくりして立ち止まり、話すことばもしばし忘れて、ただ呆然としてしまった。  この小母さんが、十一歳の時に別れた母だった。私はまったくとまどってしまって、このとき何を言ったかおぼえていない。  時計は、無情にも、八時五十五分を指し、帰艦五分前だった。母と工廠の門との板ばさみになりつつも、私の足は衛兵所を通り、工廠の中に入らねばならなかった。  母はしばらくそこに立っていたが、やがて工廠の高い塀のかげに消えて行った。  その日の私は、艦での作業がまったく手につかなかった。砲座のねじしめをやったのだったが、ペンチとスパナーとを取り違えたり、艦内の鉄の階段をふみはずしたりで、班長から、 「お前、今日はどうかしているぞ。上陸したので気合いがゆるんだのか」  とどなられるしまつだった。  二月八日すぎ、艤装整備はほぼ完了した。工員は、一組去り二組去りして、艦内はいよいよ、出港準備に入った。何十人かの新しい乗組員が毎日来着した。  上陸休暇はふたたび来なかった。整備作業完了とともに連合艦隊に配属されたのだ。一足先に艤装作業が終わって沖に投錨している対空駆逐艦「宵月」が、僚艦であった。  いよいよ出港が近くなったある日、短時間だったが上陸が許された。  私は急いで横須賀駅の前から逸見《へんみ》の山道をのぼり、大工さんの家を訪ねた。しかし家にはだれもいなかった。そこで思いきって田浦の寮を尋ねてみた。突然の訪問に母は驚いたが、 「出港なんだね」  といいながら、小さな包みを持って外へ出て、近くの防波堤の上に並んで腰をおろした。  目の前の海面には何艘かの艦船が並び、そのあいだをいそがしげに、工員を満載した作業船や、艦と艦の連絡に行くのであろう大小の内火艇が行きかい、それが一つの絵模様となっていた。  母は包みを開け、大きなむすびを手に取ってくれた。麦のほうが多いむすびだったが、生まれて初めてのなんとも表現できない味わいがあった。  このとき、お互いにどんなことを、話したかは、おぼえがない。ただひどく長かった時間のようにも思えるし、また、ひどく短かったような気もする。 「くれぐれも体に気をつけて……」  とお互いの健在を祈りあったことだけはおぼえている。当時は出港してしまえば、ふたたび生きて再会できることなど思いもよらぬことだった。 〈さらば横須賀〉 いよいよ沖に出て投錨することになった。最後の整備をしていた工員さんたちは、各組ごとに別れて艦をはなれていった。  なかには、予備にと大切にしている金槌やねじまわしを、記念にとおいていってくれた人もいた。この人たちは「蔦」を造った人たちである。艦がいつまでも無事で戦果をあげるようにと願うことは、兵隊以上の気持ちであっただろう。  今は母の連れ合いとわかった大工さんもいた。しかし、母と私が親子とはまだ知らない。 「いつもお酒をありがとうございました。また帰港のときにはぜひ来てください。家内も待っています。くれぐれもお元気で」  といい、またへやのなかの棚にでもつかってもいいように、板をおいておいたといいながら、戦闘帽のひさしに手をあてて敬礼し、艦をさっていった。その胸には、組長小原岩吉と書いた名札がつけられていた。  私は笑顔で、黙って答礼しながら見送ったのであった。  夕暮れが海面にせまるころ、艦はブイの繋留索を切り、しだいに速度をあげていく。  海面に浮かぶさまざまな船、大きなクレインが並ぶ岸の工廠そして周囲を包む横須賀の山々が墨絵となって遠のいていった。  消えゆこうとしている横須賀の山々、その一角に母はいる。私は母の家のある、逸見の山の方を望みながら、甲板に立ちつくすのであった。 〈戦艦「大和」の最期〉 あくる日から数日間は、東京湾内での速度試験や電信電波探知器の試験がつづいた。  いよいよ訓練地の瀬戸内海へ向って出港することになり、三月の末日、ようやく根拠地の呉に入港した。そこにはいままで見たこともない大小の艦がいた。そのなかには、当時世界最大の戦艦、不沈艦ともいわれていた「大和」の姿もあった。  私は、甲板からこの巨体を見あげた。大和の甲板でもそれぞれの持ち場で私と同じような水兵が、アリのようにまめまめしく働いていた。  四月二日、呉の周辺の山々にもようやく春の日ざしが強くそそがれはじめたころ、大和が出撃していくのが見えた。私たちの艦はさして遠くない所からこれを見送った。巨艦は水面をすべるかのように出航して行った。この大和が私たちの目の前から、そして日本の海面より姿を消そうとする瞬間であると、だれが考えていたであろうか。それから数日してこの世界最大の巨艦は、その姿のすべてを消してしまったのだった。  陸上とは隔離された艦内にも、だれによって伝えられるのか、戦況は憂色をますます濃くしていることが語り伝えられてくるのであった。  つい先日、私たちの隣にいたあの巨艦は、もうこの世にはない。同時に甲板で手をふっていた大勢の乗組員の一人一人の顔が浮かんでくるのだった。  私は夜光虫がきれいに光る海面を見ながら、人間の戦争をこの夜光虫たちはどんな目で見ているであろうかと考えずにはいられなかった。    敗戦から新しい時代へ 〈艦上できく玉音放送〉 夏の瀬戸内の朝はじつにしずかですがすがしかった。  強烈な夏の太陽が照りつけても、内海の水面はそれを苦もなくすいこんでしまっていた。  私の乗り組んでいた駆逐艦「蔦」は、僚艦とともに、山口県南東部の小さな漁村の海岸に、敵機の攻撃をさけて擬装接岸していた。  八月六日午前八時、課業始めで対空機銃の射撃訓練を始めてまもなく、北東方の一角で異様な閃光が起こった。  甲板にいた者がみな目撃したのだが、何ごとだろうと思っているうちにそれまでの警戒警報が空襲警報にきりかえられ、各員が戦闘準備の配置についたのだった。しかし敵機の来る気配がないままに、時は流れていった。  閃光の起きた方向には、入道雲のようなものが広がっていた。  やがて夕刻になって艦内のだれいうとなく、広島の街にとてつもない大型の新爆弾が投下され、ものすごい被害が出ているという話がささやかれるようになった。公用使として広島に行く予定だった者からきいた話だという。艦の位置から北東六十キロのところに広島市があったのだった。  あくる朝早く、総員集合で甲板に整列すると、艦長から、 「広島に特殊爆弾が落下し甚大なる被害があった。戦局は重大な時期にいたり、本艦にも非常出撃命令があることが予測される。各員持ち場の再点検をなし、ひとたび事に当たっては覚悟して狼狽することなく事にあたるよう。また特攻兵器搭載にも、万事遺憾なきように」  との訓示があった。  このとき艦は特殊潜水艦「回天」および「丸六」の搭載艦に配され、艦尾が改修されていた。だれもが「いよいよ出撃命令がでるな」と、思っていた。  それからの十日間の変貌はあわただしく、騒然たる毎日だった。  十五日、正午近く「総員集合」で甲板に整列、やがてスピーカーから雑音まじりの放送が始まり、天皇陛下の玉音が伝わってきた。  聞きとりにくいうちに放送が終わり、一時はなすことを知らぬ空虚な時が流れた。艦の舷側を打つ波の音のみがあたりにひびいていた。艦内には、自爆か突撃出港か、沈痛な空気が全艦に流れた。  待っていた命令の第一報は、「根拠地呉港へ集結せよ」とのことであった。四日ほどすぎて阿月の擬装接岸地をはなれて呉港に向かった。  自爆出撃! と勢いこんで呉港に入港したのだったが、戦災をまぬがれた港の周辺の山腹には電灯がまたたき、港内に入港しているすべての艦船からはあかあかと灯がもれ、隣の大型潜水艦からは最後の酒宴をしているのであろうか、歌ごえさえ流れている。  この光景を見たとたん何か拍子抜けとなり、急に浮き足立ってくるのをとどめることができなかった。  鎮守府へでかけた艦長帰艦後の伝達は、 「関東地区出身者は即時帰郷準備をするように。第一回帰郷上陸は二十三日、秘密書類、赤本は全部焼却を急げ」  というのであった。  戦争が終わった。帰れる。……  こんな空気が流れると、人間とはふしぎなものであった。  いまのいままで艦全体が一つになって、突撃することを目標にしてきた者が、戦争が終わったことを聞くと、とたんに艦長の新品の半長靴がなくなってしまうし、衣服類まで消えてしまうというさわぎとなり、まさに蜂の巣をつついたようになってしまった。 〈帰郷〉 第一回の帰郷者を送り、二回、三回と帰郷者を送ると、だんだんと艦内はさびしくなっていった。主のいなくなった釣り床だけが白い棒となって室のすみにたてかけられていた。  私は、第五回目の帰郷者となって、九月一日数人の同年兵とともに艦をあとにした。  呉からの汽車旅は長かった。  市街地を通るたびごとに、戦災の被害のひどさにただ目を見はるばかりであった。姫路まで来たところ、加古川の鉄橋が不通とのことで、呉からいっしょに来た同年兵と別れ別れになり、播但線の夜汽車で和田山駅に降りて、ここで一夜をあかした。  あくる日、どこまで行く汽車かはわからなかったが、ともかく行ける所まで行けと思って乗りこんだ。  敦賀市へ着いたら貨車に乗れるというのでそちらに移った。初めのうちは風通しもよかったがだんだんとトンネルに入るたびに、みんなの顔がすすけて真っ黒となってしまった。  私は貨車のすみにすわってただ貨車のゆれるにまかせた。通過する街の被害はますますひどく、見るも無惨だった。  三日がかりで直江津に着き、そこから群馬に帰ろうと思ったが、山崩れで不通であった。しかたなく宮内に出、清水越えで帰ることにした。  呉を出発して五日目の夕方、群馬の前橋に着いた。前橋の街は一望焼野原だったが、上毛の三山はくっきりと夕暮れのなかにその姿を浮かせていた。  桐生駅に下りたのはもう八時をまわっていたろう。桐生は戦災にあっていなかった。すぐ家に帰った。せまい家だったが、荷物を下ろすとすうっと力がぬけ、そのままたたみに横になり、ねむりこんでしまった。  何もかも終わった。日本の長い間の戦争も終止符を打った。また私もこのとき、私の人生の一時期の終止符をうったのであった。  それは年輪という輪が一つずつ重なるとするならば、私の十九歳という一つの年輪が、できたのであった。 [#改ページ]   第二部 赤土の誘惑   空疎な日々    かごから解き放たれて 〈長屋の人々〉 昭和二十年の終わりの二ヵ月余りは、ただ夢中でその日その日を送った。二十一年の正月がきても、年が改まったという感じも薄く、町行く人々の動きは、ただあわただしかった。男は脚にゲートルをまき、女はモンペをはき、一様に大小の荷物をかついだり下げたりして行きかった。そのなかに、復員者や引揚者の姿も多かった。  私が軍服をぬいでひとまず落ち着いた家は、桐生市の中心街をはずれた裏町の一角にあった。町のメインストリートである本町通りの西裏にあたる横山町という、さして大きくない町である。独立した住宅も何軒かあったが、大部分は棟割長屋が並び別名を横町《よこまち》とよばれていた。  この長屋の棟はずれにある一軒が私の家だった。三畳ばかりの入り口兼土間、四畳ほどのへや、それに一畳ほどの押入れと手洗い、それがわが家のすべてであった。それはまさに�うなぎの寝床�という表現にふさわしいものであった。  この棟割長屋の住人の一人として、ここから私のほんとうの独立独歩の人生が始まった。私の二十代の歩みの幕がきって落とされたのだった。  思えば、これまでの歩みには、すべて、|かご《ヽヽ》がかぶさっていた。私はそのなかの小鳥であった。小僧奉公の旦那もち、そして兵役など、大小の差こそあれ、日々の生活にかごがかぶせられていたのだった。ただ毎日毎日与えられるものを食べ、命ぜられるがままに働き、送ってきたにすぎなかった。  いま、そのかごはまったくとり払われたのだ。この一事だけで、私の心ははずみ、うれしくてたまらなかった。  長屋の住人はほとんど失職していた。寒風が容赦なく吹きつけるなかを、長屋の人々は何を求めてか、せわしげに出入りしていた。このころ、食糧難と物資の欠乏は、戦禍をうけないここ桐生にもひしひしとおしよせてきていた。  なんといっても、食糧難は最も直接のことだけに切実であった。 〈食糧を求めて〉 終日郊外の村落を歩きまわっても、やっとのことでわずかばかりの芋でも手にはいれば、まだよいほうだった。またせっかく手に入れても、持ち帰るのがたいへんだった。要所要所に張り込みがあり、つかまれば没収されてしまうのだった。だからだれもが一様にあらゆる知恵をしぼって行動していた。  出かけるとき、はじめは手持ちの、主として衣類を、交換物としてもっていったのが、だんだん農家のほしがるものがわかると、それをさがし求め、衣食住に関係したいろいろの物品をもって出かけるようになった。それらの品物は、さすがに戦災に遭わなかったところだけに、探せばたいてい見つかった。もっともほしがっていた綿製品や石けんなどは、織物の町だっただけに良質の品が残り、かくされていたのだった。  そのうちに、交換してきた食糧の一部を、町で、道行く人にゆずるようになった。このようにして自然発生的に買い出し部隊が生まれ、闇屋商売が成立していくのだった。  だが、長屋の住人には、闇商売でひともうけしようなどと考える者は、一人もいなかった。買い出しといい、闇屋といっても、自家用の配給品のわずかばかりのものや、タンスのなかの衣類を持ち出す程度では、たかがしれていた。品物を外から持ってきて、もしつかまったときは、売ったほうも買ったほうも、品物を出したほうも同罪となり、その結果の責任は持ち歩いた本人の負担となってしまい、罪と借金が待ちうけているということになってしまうのだった。  長屋の連中にとっては、罪より借金のほうがこわかった。だからうまくいけばもうかるとはわかっていても、それだけの度胸がなく、ただ背負ったりぶらさげたりして運ぶのがせいぜいであった。いわゆる�かつぎ屋�であった。 〈初めての買い出し〉 この長屋の一角に住みついてから、父は鎌倉の叔母の家に手伝いに出向いていった。私はひとり身で、食糧は自分があきらめれば一食や二食はぬくことがあっても、たいして苦にはならなかった。  それよりも、鳥かごがとれ、何ごとにもしばられずにすごせる生活がうれしかった。そんなある日、懇意になった隣家のおやじさんから、 「買い出しにいっしょに行ってくれないか」  と頼まれた。おやじさんの家には、老母と妻と十七歳の女の子を頭に五人の子どもがいた。家族みんなが気だてのよい人たちであった。おやじさんは、かつて染色の職人としていい腕をもち、相当な稼ぎをもって、長屋住まいとはいえ、いい生活をしていたという。  それが、飛行機工場の職工に転職させられ、慣れない仕事でなんとか生計を支えていた。その間にからだを悪くし、しだいにみじめなくらしになり、食糧を求めて窮迫した状態だった。  私はおやじさんとともに買い出しに出かけることにした。  その日の朝早く、海軍から帰郷するときに背負ってきた草色のよれよれになった衣嚢《いのう》(リュックサックのようなもの)を肩にしておやじさんの家に行った。 〈芋を待つ子どもたち〉 もう家じゅうの者が起きていた。九つになる女の子が、私の肩にかかった大きな袋に目を見はって、 「わあ! 大きい袋、お兄ちゃんが行ってくれるのなら、きょうはお芋たくさん買えるね」  といった。  すると、そこへおばあさんが、 「お茶が入ったから、飲んでいきなさい。朝茶はえんぎがいいものだよ」  といってお茶をついでくれた。おやじさんとともに私が出かけることが、この家の人たちにとって、こんなにも大きな力づけになっているのかと、私はびっくりした。  郊外に出て、赤城山の南面すそ野一帯に点在する部落へとおやじさんの後について歩いた。朝のうちは、寒さはきびしかったが、静かだった。それが十時をすぎるころから風が吹きだし、昼近くには砂塵をまきあげながら、あらあらしく吹きつけてきた。  市街を出てから十キロ余りも歩いたと思うころ、一つの部落を訪れた。その部落に入る道すじでは、何組かの買い出しにきた人たちにゆきあった。ゆきあうごとにおやじさんは、 「どうだね、買えたかね」  と話しかける。 「だめだめ、けさからまだ何も買えない。まったく、あるんだから、少しは分けてくれてもよさそうになあ」  と、たいがいの人は絶望的にいって歩み去った。また、なかにはすでに買えたのか、大きなリュックをふくらませたのを背負った老婆が、 「張り込みはなかったかね」  と、心配そうに聞いた。その老婆は痩せこけ、目玉だけが大きく動いていた。  部落のなかの何軒かの農家をまわった。しかし訪れるたびに、たいていはつっけんどんに断わられるほうが多かった。  昼すぎごろ、まえにおやじさんが行ったことのある家を訪れた。 「ちょうど芋がゆであがったところだ。食べていかないか」  といわれるままに縁側に腰をおろした。そこにだされた芋は、泥皮つきの親芋をゆでたものだった。その一つを手にとって、指先で皮をむいてひとくち食べると、味が腹の底までしみこんでいった。  けれども、ここでも、芋をごちそうにはなったが、結局何も売ってはくれなかった。  おやじさんと私はまた歩きつづけた。風はあいかわらず吹きつづけ、太陽は早くも西の空にかたむき、寒さがいちだんと身にしみた。  歩きながらおやじさんはぽつりと、 「帰り道が遠くなるけど、いつかこの隣の部落に行ったとき、サツマ芋を分けてもらった家があるから、その家にでもいってみようか」  部落をでると、田や畑が一面にひらけ、その向こうにこれから訪ねようとする部落が見えた。その部落へ近道をしていくため、田の|あぜ《ヽヽ》や小川を飛び越えながらいそいだ。私はおやじさんと並んだり、後についたりしながらつづいた。  太陽はますますかたむき、五、六本ずつ群らがって生えているすすきの影が長くのびていた。きょうきたのは私自身の買い出しではない。おやじさんのお供であり、買えた食糧を背負うのが役目であった。だから、ただおやじさんの後について、けさから歩いてきたのであった。  だがこのとき、出がけに、 「きょうはお芋がたくさん買えるね」  といった女の子の期待に満ちた顔が浮かんできてしかたがなかった。そうだ、もしなにも買えずに帰ったら、|おなか《ヽヽヽ》をすかして待っているにちがいない子どもたちが、さぞがっかりするだろうと考えると、もう、おやじさんの後ばかりついて歩いているわけにはいかなくなった。  ——よし、つぎの部落にいったら、私も進んで買う交渉に当たってみよう。  と思い、おやじさんに話してみると、 「そううまくはいかないよ」  おやじさんはそうつぶやくようにいいながらも、もってきた交換物の石けんで、サツマ芋または里芋ならいくつ、麦ならば何升と、それぞれ希望できる量を教えてくれた。  私は自信があった。それはかつて浅草の奉公先でしこまれた外交《セールス》にたいする心得が腹底にあったからなのだろう。 〈がめつい爺さん〉 部落に入って、おやじさんの行く先を教えてもらって別れ、一軒の農家に単身で立ち寄ってみた。だがここでは、ケンもほろろに追いだされてしまった。  二軒、三軒とまわってみたが、同じようにとりつくしまもなく断わられてしまう。また一軒の家を訪れて頼みこんでみた。この家は、部落のなかでそう大きな構えではなかった。  私が入っていくと、うさんくさそうな目で、いろり端にいた爺さんが私のほうを見てから、 「どこからきたんだ、なにもねえなあ」  といいながら、腰にさしていた蝋鞘《ろざや》の刻みたばこ入れをぬきとり、みごとな銀ギセルをひきぬいた。 「少しでもいいから、芋を分けてくれませんかね」  私は重ねて頼みこんでみた。 「まあ、寒かんべえ、こっちへきてふんごまねえか」  と、爺さんがいってくれたのでいろり端へ腰をおろした。爺さんは細いソダを火にくべた。  パッと家内が明るくなった。銀ギセルに刻みたばこをつめると、爺さんは、もえている小枝を一本手にして火をつけた。 「お爺さん、ずいぶんりっぱなものをもっていますね」  私がなんの気なしにいうと、 「ほう、おまえにこれがわかるのか」  と、私にたばこ入れをさしだした。それを手にとってみると、じつにりっぱないいできのものだった。私がながめていると、 「その根付けはよかんべえ、それは本物のメノウだぞ」  といった。私はその根付けより、蝋鞘のほうをみごとだと思って見ていたのだった。ところが、話しているうちに、 「おめえ、これで米一斗ではたけえかのう」  といいだした。 「きのうな、これを町からきた衆がもってきて、一斗五升といったのを、一斗にしろといって交換したんだ」  と自慢そうにいいながら、 「おめえも何かもってきたんか」  といいだした。〈しめた、この爺さん、交渉しだいで何か売ってくれるな……〉と思った。こうなると、十センチ角、長さ四十センチぐらいはある上等の練《ね》り石けんが、ただ一つの頼みの綱となった。話は、戦地へ行ったきりの息子の消息が不明なのをなげき、進駐軍の話、軍需工場の隠匿《いんとく》物資の話など、しばらくはよもやまの話がつづいた。息子の話以外はおおかた買い出しにきた者から聞いた受け売りらしかった。私はその話の合い間をみては交渉に当たろうとするが、その話になると、急にがめつくなって、なかなか話が進まない。ただのらりくらりの問答がつづくだけだった。  外ではいつの間にか日が落ちて暗さが濃くなっていた。吹きつけていた風はやんでいた。  あせる心を押えながらの交渉談義がつづき、三拝九拝のすえやっと麦二升とサツマ芋七貫目、それに里芋二貫目を売ってもらうのに成功した。大急ぎで荷づくりする。 「いま、煮ぼと(煮こみうどんのこと)ができるだんべえ、食べていかねえか」  と、爺さんがいってくれるのに返事をしながら、私は荷をまとめるとすぐにおやじさんの行った家へ急いだ。おやじさんは、 「あんまり来ないので道にでも迷ったんかと心配していたよ」  と待ちくたびれていたようだった。おやじさんもいくらか買えたらしく、包みをもっていた。  外はすっかり宵闇に包まれ、寒さがいちだんと厳しさを増していた。その冷えかえる闇のなかをおやじさんの後について帰途につく。暗い道は、私にはどこをどう歩いているのか見当がつかない。  はじめはまったく重みさえ感じなかったのに、背負った芋が背中にあたって痛みをおぼえだした。  二時間近くも歩きつづけて、ようやく桐生の町のあかりが見えてきた。背中がびっしょり汗になり、足の先はつめたく痛んだ。 〈「いま帰ったぞ」〉 桐生の町についたのは九時近かった。町中とはいえ、真冬の九時近くともなると人影もまばらになり、ひっそり閑としていた。  きしむ戸をあけながら、おやじさんが、 「いま帰ったぞ」  と奥へ声をかけると、家のなかからいっせいにかちどきのような歓声が飛びだしてきた。  家族のだれもが、ぬるくなった切りごたつで、私たちの帰りを待ちこがれていたのだ。背中の荷をおろしていると、切りごたつへまっ先に招きよんでくれたのは子どもたちであった。裏のほうにある共同井戸から、手押しポンプのきしむ音が聞こえた。おかみさんが、さっそくサツマ芋を洗って蒸すしたくをしているのだった。暗い土間のすみにあるかまどのあたりが、ボーッとあかるくなり、おさげ髪の姉ちゃんのひよわな顔が、もえあがった火のあかりに浮かんでいた。  私は切りごたつでお婆さんや子ども、それにおやじさんもまじえて、その日のことを話しあった。  やがて土間のほうから、サツマ芋のふけてきたにおいが漂ってきた。  夢中に食べつづける子どもたち、いや、お婆さんも、おかみさんも、そしておやじさんも、みんなの顔になんとも言えぬ喜びと満足感がありありと見られるのだった。  みんなが喜んで食べているのを見ているうちに、今日の疲れは、いっぺんに消えていった。  すすめられるままに、|しょうぎ《ヽヽヽヽ》のなかの一本を手にしてひとくち食べると、蒸《ふか》し芋独特の強いにおいが、たまらなくなつかしかった。  おやじさんの家を出たときは、十時をまわっていた。一歩おもてに出ると、外は凍《い》てつき、長屋の家並みにそって流れているどぶ川の水の音が、細々と伝わってきていた。  わが家に帰って、ひとり毛布にくるまっていると、ありし日、鎌倉の家での一家団らんの姿が、まぼろしのように思い出されてくるのであった。寒さはしんしんと伝わってきたが、今しがたの、芋をほおばっているみんなの顔を思いうかべて、私の心はあたたかかった。   失意のなかから出発 〈熊さんの墓まいり〉 戦争が終わりをつげてから六ヵ月余り、私が長屋の住人のなかま入りをしてから早くも五ヵ月余がすぎた。  桐生の町、とりわけ本町通りは、行きかう人々でますますあわただしさを加え、その間をぬうようにリンタクが走っていた。  そして大通りの路傍では、いろいろな品物を並べた闇市がにぎわい、人々の群れがふくれあがった。それもそのはず、ここにくればそれまで長い間不自由してきた衣食住に必要な生活物資のほとんどといっていいくらいの品物が並んでいるのだった。  空っ風が吹きつづける毎日がつづいていたが、ある雨あがりの、珍しく暖かい日、金子熊吉さんの墓まいりに出かけた。桐生のゴム工場でいっしょに働いていた熊さんは、私が海軍にいた間に工場のローラーにはさまれて事故死した。熊さんは数多い戦争の犠牲者の一人でもあった。私は筑波の航空隊にいるときその不幸を知った。  背の低いぼくとつな農夫を思わせる熊さんとは、とくに親しかった。  桐生川の対岸、足利《あしかが》郡菱村中里の熊さんの家へ歩く間に、からだじゅうが汗ばんでくるくらい暖かだった。金屑という小さな台地の南斜面の家に並んで、墓地があった。そこにまだ白木の色もま新しい角柱の墓標が立ち、「故金子熊吉之墓」の文字が黒々と浮かぶ下で熊さんはねむっていた。かわいがってくれたその人の冥福を祈って墓前に合掌した。  墓参をすませて、墓地傍の小道を台上にのぼってみた。その台上を、戦時の食糧増産のために熊さんはせっせと開墾していた。その跡の残る赤土色の地はだはそのままだった。ここの台地に立つと、桐生川をまたいで桐生の市街が一望に見られ、かつて通った工場のノコギリ屋根の群れが、すぐ目の下の水田にかこまれてあった。  私はしばらくそこに立ってすぎた日を思い浮かべていたが、ふと足もとに、十センチ角ほどの赤色をした土器の破片があるのに気づいた。ひろいあげてみると、表面に縄目の模様がついている。あきらかに縄文土器の破片なのであった。 「そうだ、ここは熊さんが開墾した土地だったっけ。あのときも分銅《ふんどう》形の石斧や土器が出てきたっけ……」  台地を歩いて、両方のポケットいっぱいに土器片や石器を採集しながら、私は「ここにも出るぞ」と教えてくれた、ありし日の熊さんがなつかしく思い出されてしかたなかった。  日暮れて家に帰った。ポケットにつめこんだものを一つ一つていねいに洗って並べてみた。あの台上に、遠いむかし、私たちの祖先が生活していたんだ。そう思うと改めて感激をおぼえるのだった。 〈鎌倉行〉 おやじさんとの買い出しはあいかわらずつづいた。四月の中旬ごろになって、おやじさんは何人かのグループと、桐生の銘仙をもって遠くへ商売に出かけるようになった。買い出しよりお金になる仕事にありついたわけである。自然、買い出しには私ひとりで行くことになり、折りをみては桐生周辺の台地を歩きまわり、買い出しとともに、遠い先祖の生活の様子をさぐるほうへ関心が高まり、そこに心のなぐさめを見出すようになったのである。  五月の初旬、私は思いきって、いちめん焼野原と化したままの東京へやってきた。  同級でなかよしだった内山淳平君が突然なくなったというしらせをうけたことと、横須賀にいる母に会いたい気持ちが、私を桐生にじっとさせてはおかなかった。  夕方、ようやくのことで鎌倉駅に降り立った。駅前付近にはまだ通行人は多かったが、駅を離れるにしたがって人影はまばらとなり、鶴岡八幡様への参道には私の靴音だけが響いていた。段かずらの桜並木を通り、鳥居をくぐり、たいこ橋を右に見ながら木橋を渡った。街頭の裸電球がぽつりとともっていて、その傍に大《おお》公孫樹《いちよう》が天へのびて茂っているのが見えた。石段をのぼる私の靴音がはずむように響く。のぼりきったところで、ククーッ、ククーッと、鳩の鳴く声が頭上にし、社殿の屋根がおおいかぶさるように迫っていた。  おそくなってわるいと思いながら、内山君の家をお訪ねした。御両親は、突然の訪問に驚かれ、また喜んでくださった。その夜、淳平君がなくなったいきさつや生前のことなどをおうかがいしながら、泊めていただいた。淳平君はもうこの世にはいない、この事実は私の心のさびしさをおしひろげてしまうのだった。そして、なぜ鎌倉は、私にとってこうもさびしい思い出ばかり残ってしまうのだろうかと、みずからに問わないではいられなかった。 〈母との再会〉 鎌倉を後にし、横須賀駅に降りた。駅付近や町なかは色とりどりの進駐軍の将兵でごったがえしていた。  駅や町そのものは変わっていなくても、敗戦は、人の種族、はだの色、ことばは風情を変えてしまっていた。戦争に敗けたことのみじめさが、ここではじつに、直接的な形で町中を圧していた。  私は逸見の高台にある母の家を訪れた。かつて偶然のひきあわせから、この家へきたときは、戦争のあわただしいさなかで、あすをもしれぬお互いの運命を背負わされていた。だがいまはもうその心配はまったくなく、ただ母をなつかしむ心を満たされ、話もはずむのであった。はじめのうちは、お互いが無事だったことを喜び合い、明るい話題ばかりだったのだが、だんだん話がしめっぽくなってしまった。そのうちに、いまは進駐軍の兵舎づくりをやっているという小原さんが帰宅したが、夕食の席につくと、話のはしばしに冷たいものが流れるのだった。  小原さんは執拗に私の父のことを問いただすのだった。酒がはいるとますますからみつくように、そのことを口にした。母は口をつぐんでしまった。  この小父さんが、あの出港のとき、手をふり、別れを惜しんでくれた人だとは思えないくらいだった。私は急にすべてが虚しく思えた。人間の変わり方の意外なのにただ驚くばかりだった。そして、くるのではなかったと思い、さびしさが大きく心を占領した。もう九時をすぎていたが、私はいたたまれず、その家を飛びだしてしまった。  母は、追っては来なかった。小原さんに気兼ねしてのことだったのだろうか。なんともやるせない気持ちで坂道を駆け降り横須賀駅へがむしゃらに歩いた。あぶないところで終電車に間に合ったが、私はなんとはなしに鎌倉駅で下車してしまった。  何人かの人が降り、電車が走りさった後は、急に駅の構内がさびしくなった。それでも駅の待合室には何人かの人が紙をしいて、夜明かしのしたくをしていた。私もここで夜の明けるのを待った。  夜が明けそめたころ、浄明寺のほうへいってみた。二階堂の杉本寺の石段をのぼり、本堂前に立つと、本堂の扉は固く閉じたままだった。浄明寺の前で本堂にねむっている妹の霊に手を合わせてから、町なかを通って由比ケ浜にでた。  そこには、朝の海が広がっていた。白波がよせてはかえし、またよせていた。その風景は、かつて子どものころ遊んだときの海と、少しも変わっていなかった。そして、よせてくる波が白くくだけて砂浜にひろがるのをみつめていると、自分自身の孤独さが痛いほど心をえぐってきて、とめどもなく涙がほおを伝わって落ちるのだった。  考えてみれば、昭和十一年、十歳のときから、私はひとりぼっちの歩みをつづけてきた。  弟も、妹も、そうだった。そしていま、久しぶりに淡い期待さえ抱いて会いにきた母にも、絶望感だけが残った。母はもういないのだ、と自分自身にいいきかせていた。  砂浜に立ちつくす私はせつなかった。寄せてきてはくだけ散る波とともに消えてゆきたかった。  もう私には、たよる人はだれもいない。一人ぼっちなのだ。一人ぼっちで果てしない歩みをつづけていかなければならないのだ。  負けてたまるものか、桐生へ帰ろう。私の歩みの道標は、きっと北関東の一角にそびえる赤城山のすそ野のなかにもとめられるにちがいない。  私は相模の海原に向かって思いきり叫んだ。 「さよなら——、さよなら——」   大自然にふくらむ夢    細石器発見へ 〈小間物商い〉 赤城のすそ野は、緑に移り変わった。村々への買い出しは、日々つづいた。  また買い出しとともに、桐生周辺や山麓の各地を歩き、祖先の生活の跡を訪ね歩いた。それがそのときの私の心にただひとつの憩《いこい》であった。  五月の中旬のある朝、長屋でにぎやかな話題がかわされていた。本町通りのほうで、映画の撮影があるという。  通りに出てみるとたいへんな人だかりで、いつはじまるともしれないロケを、いまやおそしと待つ人たちでいっぱいであった。 「きた、きた」  という声が伝わると、銀紙をはった大きな板をかついだ人が五、六人かたまってやってきた。 「きた、きた、エノケンがきたぞ」  やっと待ちこがれていたようにざわめきが伝わってきた。カメラをかついだ数人、俳優が十人ほどとつづき、そのなかに、目玉のクリッとした背の低い人が、ちょこちょこと歩いてきた。まごうかたない、喜劇俳優の第一人者榎本健一さんだった。  そして独特の表情でプロデューサーか監督らしい人と何か話し合っている。 「エノケンだ、エノケンだ」 「おおい、エノケンだよお——」  見物の子どもや女の人たちがさわぐ。殺伐な戦後の町に一ぷくの清涼剤のようななごやかさが流れる。このときの撮影は、エノケン一座による「人生とんぼがえり」という喜劇映画だった。  五月が終わりに近づき、青葉がますます濃くなったころ、 「ストックの品物があるから、売ったり食糧と交換したりしてくれないか」  と、知り合いの商店主から頼まれて引き受けた。最初にもたされたのは、縫い糸、縫い針、クリーム、ポマードなどの日用品、雑貨、小間物の類だった。  第一日は、赤城の山すその、かつて買い出しにきて顔見知りになった農家を訪ねた。どの家でも、主婦や娘さんが喜んで買ってくれ、出足は順調であった。そして、これが私がはじめて単独でぶつかった商売となり、買い出しとはちがう商売というもののよさを知った。出足が順調だったので、いきおい熱が入った。たいがいもっていった品はぜんぶ売り上げてくるので、卸してくれた店の主人もだんだん元値をつりあげてきた。それでも品物がないときだったのでよく売れた。  このようにして、赤城山麓の農村をまわって歩くのが、その日その日を送る重要な仕事になった。そして行商とはいえ、自分の仕事がもて、その仕事場が大自然のなかの村々にあり、ファイトのわく毎日となった。村から村とまわるうちに、各地で食糧増産や松根油採取のために掘りおこされた跡がそのままになっていて、そこに石器や土器をはじめ、いろいろな祖先の残した遺物が散らばっているのによく出会った。  それらの数は驚くほど多く、山すそにひろがる原野には古い古い時代からの、人間生活の歩みの跡があることを、知るようになった。 〈遺物との語らい〉 小間物の行商はますますうまくいっていた。はじめ、品物を売ってきてくれないかといった商店主は、 「おれも品物をもって出かけてみるかな」  などといいだした。しかしその店は桐生で大きな店舗を構えるれっきとした老舗《しにせ》だった。  その店の主人が、農村をまわる行商などできるものではない。主人のプライドが許さないのだった。はじめは「売ってきてくれないか」といっていたのが、その品物が売れるとなると、元値を高くしたり、売れそうもないものをもたせ、売れる品物を減らしたりした。そのあげく「売らせてやるんだ」ということになってしまった。  このようなことは、かつて私の奉公した浅草の|はきもの《ヽヽヽヽ》屋の旦那は�成り上がりあきんど�といって、口をすっぱくしていましめ教えてくれたのを思い出させた。  桐生のような地方都市で、いわゆる老舗といわれるほどの店ともなれば、〈商品をあきなう〉商人であると同時に、地主であり、家作もちであり、隠然たる町の名士でもあった。  したがって商人本来のそれと、もう一つ別の顔が重んじられているのだった。私のもって歩く商品の主は、そういう一つの型をもった人でもあった。しかしそのようなことを知るのには長い時間がかかった。  そしてこのような商人の型は、かつて浅草の主人から教えこまれた商人の典型とはまったく別のものなのである。私は、いつの間にか、その店で�売り子�として扱われていた。  売り子は、自分の利益を考えるよりもまず店のためを考え、そのためにのみ売る立場に立たねばならない。そして、店の意向によっていつでも〈借金〉を負わされて使われる結果となるのだった。  元値がつりあげられ、利益は少なくなったが、村々を訪れて商いをすることにファイトがわいていたので、私には苦にならなかった。またそれほどよく売れたのである。  暑い日がつづくようになり、ときには雷雲におわれながらの商いがつづいた。その路傍ですれちがう買い出し部隊の数もふえ、そのなかには、はるばる東京方面からきた一団もあった。  一日の商いから町にもどると、大通りにはまためっきり露店の数がふえ、いかにも�闇市�とよばれるにふさわしいふんいきが漂っていた。  暑いなかにも、どこか涼風が立ちだしたころ、一日歩きつかれて帰り、サツマ芋をふかしたのを食べて床につく。一日のうちでこの時間が、私にとっていちばん孤独を感じるときだった。が、このさびしさの底から、私をうながすように、頭をもたげてくる一つの夢がだんだん自分のなかで自覚されてきたのであった。  それは、訪れ歩く先々で採集してきた大むかしの遺物である土器片、石器などの、無言の語りかけであった。  サツマ芋を食べながら、ひっそりとした部屋のなかで、土器や石器を手にし、その遺物が使われていたころの大昔に思いをはせる。それを使っていた私たちの祖先の人びとが、私にささやきかけてくるような気さえするのだった。  このような毎日をすごしているうちに、ふと、いったい桐生の町の周辺や赤城山麓には、いつごろから人間が住みつき、そのあけぼの時代はどんなであったろうか、と考えるようになった。そして、赤城山や榛名山などの山々はいつごろ爆発し、噴煙をあげていたのだろうか、と思いをめぐらすようになった。  その日その日を食べていくのは、村々を訪れる商いでどうやら間にあう。が、それだけで自分の人生を足れりとするのは私にはものたりなかった。夢を大きくもちたかった。遠くてもよい。その時代の団らんのなかをかけめぐりたかったのである。  食べるほうはやっていける。私の心にわいてきた夢をより大きくもとめそだてていこう。それには、桐生や赤城山麓のあけぼの時代に住んでいた祖先の生活の遺跡をさぐり、その分布している状況を徹底的にしらべることにしよう、と自分にいいきかせた。  私は、古本屋の店先にあった陸地測量部発行の五万分の一の古地図「桐生及び足利」と「前橋」の二枚を求めた。そして、黎明《れいめい》期の遺跡地を見つけてはそのたびに、図上へその位置を記入していくことからはじめた。  そしてその図上の赤丸じるしがふえるたびに、私の夢は大きくふくらんでいった。 〈赤土の断面〉 山麓の大自然にまた秋がめぐってきて、戦争が終わって二度目の秋風が吹きつけてきた木の葉が一枚一枚舞い落ちるころ、秋風は切々としみた。しかしこのときの私は、現実ということより、夢のふくらみのほうが大きかった。  行商先で農家の縁先に腰かけて商品を並べながらお婆さんに話しかける。 「柿の色がよくなりましたね」 「ことしゃあ、たくさんなってのう」 「あれはハチヤですか」 「いいや、ありゃあ、ツルッコでのう」 「そうですか」 「あの柿は、わしが嫁にきたとき、なくなった爺さんが植えてのう」 「お爺さんは早くなくなったのですか」 「はあ、十五年になるだんべえ」 「そうですか」 「あの上のほうの二またになっているところまで孫たちがよくのぼってな、爺さんによくおこられたもんでなあ」 「そうでしょうねえ、ちょうどのぼりいいから……」 「その孫も兵隊にでて、一人ゃ死に、一人ゃどうなったか、まだわからねえだよ」  話すお婆さんの顔には、むかしをなつかしみ、そして、生死不明の孫をいとおしむような、複雑な表情がよみとれるのであった。  庭先の柿の実の赤はたまらないほどあざやかだった。  きょう一日が早くも暮れようとしていた。私は村々での商いの帰路を急いだ。丘陵地の畑道を歩きつづけているうちに、山と山とのすそが迫っている間のせまい切り通しにさしかかった。両側が二メートルほどの崖《がけ》となり赤土の肌があらわれていた。そのなかばくずれかかった崖の断面に、ふと私は吸いよせられた。  そこに小さな石片が顔をだしているのに気づいたからであった。私は手をのばして、荒れた赤土の地はだから、石片をひろいあげてみた。長さ三センチばかり幅一センチほどの小さなその石片は、てのひらのうえで、ガラスのような透明なはだを見せて黒光りしていた。その形はすすきの葉をきったように両側がカミソリの刃のように鋭かった。  私には、それがどれほどのものかはわからなかったが、その鋭さのなかに、人間の歴史のもたらす跡のようなものを感じとらないわけにはいかなかった。ひょっとしたら、いま自分が立っている大地の赤土の下に、黎明期の祖先の生活の跡があると思うと、まったくふしぎな気がしてくるのだった。私はなお崖の断面をつぶさに見ながら、三片だけだったが同じような石の剥片《はくへん》を採集することができた。そしてほかに何か土器片がないものかとよく見てみたが、それは見当たらない。  たいてい、それまでの経験では、石片があれば土器片がその近くから見つかり、その土器片によっていつごろそこに祖先が住んだのかの目やすがつくのであった。しかし、そこでは土器片は見つからなかった。  ひろったすすきの葉のような石片をふたたびてのひらに乗せてながめた。片面は黒光りし、片面は赤土がついているが、どうもその石片はそれまでに採集してきたものとどこか少し変わっているのに気がついた。  ひょっとしたら�細石器《さいせつき》�とよばれているものではないか、しかし、まさかこんなところから細石器がでるはずは? と、大きな、深い、疑問に包まれてしまうのだった。  細石器については、もちろん実物を見たことはないが、本や写真、図などで何度か見て知っていた。それを思い出しながら私の疑問は深まるばかりだった。細石器というものはそれまでの日本ではまだあるかどうか不明であり、またそれは、より古い黎明期に栄えていた文化を物語るものだったのである。  はだ寒い風が、崖道に立ちつくす私めがけて吹きつけ、崖上ですすきの白穂が揺れていた。大きな買い出し袋を背負った一団が足早に通りすぎていった。 〈細石器への疑問〉 赤土の崖を後にし、桐生の町中に帰ると、町中は行き交うリンタクの鳴らすベルの音と、支那そば屋のあかりが目にしみた。わが家に帰りついたときは八時をまわっていた。  一つしかない電灯の球をひねるとパッと明るくなったが、室内は寒々としていた。  ゲートルを取り、七輪に消し炭で火をおこし、三本ほどのサツマ芋を飯盒に入れ、かけてからこれを畳の上に持ち込んだ。  さっそく、先ほど赤土の崖で採集してきた石剥片《せきはくへん》を取り出して並べてみると、そのなかのひとつは電灯の光に鈍い光を放つ。  どう見ても、ススキの葉のような細石片が気にかかってしかたがない。  手許《てもと》に何冊かある考古学関係の本を調べてみた。そのなかに浅草にいるときに求めた一冊の雑誌があった。それは「科学知識」といい、昭和十年四月発行の第十五巻四号のなかに八幡一郎先生が、「日本の石器時代と細石器の問題」という表題で、三ページにわたり図版と写真入りで書かれている一文があった。  このなかの写真と、赤土の崖で採集した石片を比べてみるとじつによく似ているのであった。そして、その文中には、細石器とふつうの石器のつくり方および剥片のでき方の相違がわかりやすく解説されていた。またさらに文中で、 「日本の新石器時代には打製石器を主として、これに磨製石器を加え、じつに多種多様の石製利器がある。そのうち、小形の打製石器には石鏃《せきぞく》・石匙《せつぴ》・石錐《いしきり》などがあるが、なかで石鏃・石錐などは長さおよび幅にたいして厚さが比較的厚いばかりでなくほとんど全面に加工してあるのがつねで、いわゆる細石器とは趣きを異にする……」  とあり、さらに、 「細石器および石核《せきかく》を北海道において探し得るという望みが生じた。いや内地においても一層の注意をはらうならば、これに類する発見があるかもしれない……」  として、 「日本の新石器時代文化が大陸のどの部分の文化に連なるかは、今日のところまったく不明である。この重要な問題の解明に細石器のごときは一つの鍵となるかも知れない……」  と書かれているのであった。  この一文は当時、先生が東京帝国大学理学部人類学教室の標本を調査中に、北海道十勝のアイヌが所持していたと伝える細石器と石核があることに着目されての所見と、それにかんする意見がのべられているのであった。  私はこの一文を読みながら、赤土の崖からの石剥片が細石器であるかどうかは別として、特殊な剥片であると考えた。  そしてこのような剥片がこれまでに採集してきた遺物のなかにあるかどうかをたしかめてみたくなり、佃煮の空箱二十個あまりに一遺跡ごとに入れて、整理してあるものを出して一つ一つ調べてみた。  積みあげられていた箱をひろげたので、畳の上は身動きもできないくらいになってしまった。どのくらいの時間がすぎただろうか。隣の家の時計がボーン、ボーンと鳴り、ぷっつりと切れる。  七輪の火は消えてしまい、かけてあった飯盒のなかの芋は生煮《なまに》えでガリガリになっていたが、おなかのなかに染み込んだ。  ひととおり箱のなかの遺物を調べてみたが、赤土の崖のところからのような石剥片は見当たらなかった。  赤土の崖、そして細石器様の剥片、これを残した人びとの生活、なお当然あるであろう土器片にはどんな模様がつけられているであろうか。私の頭のなかは、つぎつぎと解けぬ謎でいっぱいとなってしまった。  気がついたときには、スズメの鳴き声がして、もうしらじらと明けてきていた。  朝食のしたくがはじまったのか、パチパチと火のもえる音、共同井戸の木製ポンプのきしみ、幼な子のかん高い泣き声、そして茶わんなどのふれあう音が聞こえてきた。  いつも変わらぬ長屋の朝が訪れてきていた。その家並みのまえの道を、ベルを忙しげに鳴らしながらリンタクが走っていった。    深まる謎 〈稲荷山の赤土の崖〉 その朝、すりきれた五万分の一の地図「桐生および足利」と「前橋」の二枚をポケットに入れ、雑のうを肩にかけて、小間物行商の商品のはこを背に負って家を出た。渡良瀬《わたらせ》川を渡り、前橋街道にそって、笠懸村竹沢部落を通り、きのうの赤土の崖へと急いだ。  崖道のところまできて、まず地図をひらいた。位置を調べると、そこは渡良瀬扇状地の北東縁部に当たり、三つの峰に分かれた孤立丘陵で、全体がひょうたん形をし、小ぢんまりとした閑静な場所であることがわかった。  もう一度、赤土の崖面とその付近を念入りに調べてみた。上のほうの三十センチばかりはやわらかい腐蝕土で、その下の一メートルほどがかたい赤土となり、つづいて黒褐色をした粘土質の層が四十センチほどあって、その下はふたたび赤土の粘土化した層に移行しているのであった。  そのとき、また三片の石剥片を見つけることができ、それらは赤土のくずれ落ちたなかに顔をだしていた。切り通しの道の両側のところからさがしだしたのだった。そしてこのときも、ずいぶんさがしたのだったが、土器片は一片も採集できなかった。  通りかかった農夫のおじさんに、この付近の地名をきいてみた。丘陵は、南から金比羅《こんぴら》山、山寺山、稲荷《いなり》山とよび、この地点は新田郡笠懸村沢田というところだと教えてくれた。  私は崖の付近の地形調査をしながら、中央の山寺山にのぼった。やや急な雑木林のなかの山道をのぼっていくと、右側の木の枝越しに沼が見えた。のぼりきると、眼前に新田平野がひらけ、遠く秩父の連山や西上州の榛名《はるな》、妙義、そして浅間、荒船の山々が一望された。  この山頂は、地図には一九六・二メートルと記入されていて、水田からの比高は五十メートルほどなのだが、扇状地のせいか、じつに眺望がいい。  ここに立っていると、大自然のなかの私があまりにも小さく感じられ、遠い大むかしにここに住んだ人びとも、きっと朝な夕なにここに立って、大自然の雄大さに見とれ、また大自然の神秘的なおそろしさにおののいたこともあったにちがいない、などと思いめぐらしながら立ちつくしていた。  その夜、もう一度、崖道でひろった石剥片六片を並べて、赤土の崖とこれらの遺物との関係を考えつづけたが、謎は深まるばかりであった。  よし、なんとかしてこの謎を解き明かしてみよう。それにはまず赤城山麓の縄文文化のあけぼの時代の遺物、遺跡を徹底的に追究していって、その資料を明らかにしていくことができれば、なんとかこの謎を解く手だてに到達するだろうと考えたのだった。  その夜、地図の上にはたくさんの赤丸じるしにまじって、稲荷山前の切り通しの位置に二重丸が書きこまれた。  秋はますます深まり、冬が近づいてきたが、私の夢は大自然のあけぼのの謎を解くという目標に定まり、連日山麓の村々を商いしながら、遺物と遺跡を求めて歩きつづけた。 〈後藤守一先生の一文〉 十一月に入って間もなく、ふと街頭の露店に「日本歴史」という雑誌が並んでいるのを見つけた。すぐ手にとって開いてみると、後藤守一先生が「日本人の古さ」と題して書かれている一文が目にとまったので、さっそく買い求めて読んでみた。先生の日本人の起源に関する見解がわかりやすく七ページにわたって記載されていた。その文中、 「日本に旧石器時代人が住んでいたかどうかということは古くから問題となっていたが、それとともに、多くの学者はこれを否定しつづけてきた。じつをいうと、私も否定側に立っていたのであるが、近ごろは〈住んでいたかもしれない〉と考えており、とにかくに、〈住んでいない〉と断言するのは誤っていると信ずるようになった……」  とあり、そして、 「今日では縄文式文化は、曙期・前期・中期・後期・晩期と五時代を経過しており、その各期がまたそれぞれ三・四の時代に区分されることになっている。そのうち前期までは六、七年前の研究でほぼ認められていたが、ここ五、六年間に研究はもう一歩躍進して、前期の前に曙期のあることが説かれるようになった。つまり〈最初の日本人〉の年代は年を追って古代へとさかのぼって行く……曙期の最初の頃の遺物は関東ロームの上層近くから発見される。ところが関東ロームの積成は沖積世の初期ということになっている。もっとも遺物包含層はそのローム層の上層であるから、沖積世初期とはいえ、ローム層積成の終末に近い時代となろう。そして洪積世が終わり沖積世に入ったのが、いまからおよそ一万年前ごろであるとすれば、この縄文式文化の初端は、いまから七、八千年前だろうとしてもさしつかえなかろう」  さらに、 「沖積世初頭をさらにさかのぼって、洪積世時代における日本に人類の存在を予期し得られるとともに、また一方、現在〈七、八千年前〉までさかのぼりえた日本人が、それよりもさらにさかのぼりうる時代の文化生活を予想することもできるとすれば、進んで、その洪積世時代に存在していた人類こそ、日本人の祖先であろうとして〈日本人の古さ〉を、なお一層|遡源《そげん》しうるかもしれない」  なおまた、 「縄文式文化曙期の文化を概観すると、稲荷台式系と田戸式系との二系統の文化が関東地方を接触地域として西南日本と北日本とに分かれて分布している……」  と述べられているのであった。  私が稲荷山の赤土の崖と、そこから発見された石剥片に疑問をもったとき、八幡先生と後藤先生の一文に接することができたのは、じつに幸運なことであった。八幡先生は石剥片についての指針を記載され、後藤先生は赤土とよばれる関東ローム層と曙期の祖先の生活と文化の問題点と見解を、わかりやすく記載されていた。しかも自分がいま直接ぶつかっていて深まるばかりの謎に包まれていることへの、大きな目やすが与えられたのだった。  この二つの文は、桐生周辺や赤城山麓の曙期をさぐりもとめようとする私にとって、そのアウトラインを知る上の重要なテキストとなったのであった。 〈人間思慕〉 後藤先生は「日本最古の文化は撚糸文式《よりいともんしき》土器と田戸式土器である」と記されている。私がそのときまでに山麓で曙期の遺跡として地図に赤丸じるしを入れ、採集してきた資料は、そのほとんどが撚糸文式と田戸式に該当していたのであった。  そして、この土器群を使用していた祖先の生活の跡が、北関東西北部地方に多く見つけだされるということ自体が、じつにおどろくべき新事実であったのである。  二人の先生の論文を読み、現地で遺物を再検討すればするほど、私は、あらためて、みずからが心に抱いた曙期の人類と文化の解明への夢が、意想外に大きなものであることと、同時にまた赤土の崖で発見した石剥片を残した祖先の人びとの生活は、曙期のなかで、どのような位置をしめているのであろうか、と思わずにはいられなかった。  私は、つぎつぎと夢と謎とが交差する世界のなかにさまよいこんだ、迷える羊《ひつじ》のようであった。けれども私の心は、異常なまでにこのことにひきつけられてしまっていた。いま私は、だれからもしばられず、だれにも気がねすることのない、ひとり身の自由な人間であった。そして食べることができるだけの手だては行商でかせぎながら、雄大な大自然のなかにねむる、私たち人類の祖先の生活の跡を、ひたすらに�人間思慕�という目的を追って歩きつづけることができる。  このことこそが、私が長い間、求めてきたことであるともいえた。この貴重な、かけがえのない事実は、私を欣喜雀躍させ、勇気にあふれさせてよいはずであった。  しかし、いざそのような環境をむかえてみると、そうはいかなかった。私には何ごとも語り合える心の友がなかった。話しあえるよき友をほしいという切実な願いが、私の心をさびしさに追いやった。そのくせ、現実の人間社会には、なぜか嫌悪《けんお》感が先に走るのだった。  一歩前へ出ようとして、その現実社会のなかへ進み入ることを拒む、自身の心の声があるのだった。それは、私のそれまでの二十年の歩みのなかからつきまとってしまったものともいえる。それだからこそ、私の戦後の新しい歩みは、大自然のなかへ向けられていったのである。  それが、いま、�日本最古�の人間と文化の謎という大問題にぶつかってしまったのだった。  農家の庭先の柿の実も一つ一つ消えて、冬はもうすぐそこまできていた。すでに何回も訪れて、立ちつくした稲荷山前の赤土の崖、ついでにかならずのぼった山寺山、そこに立つと、晩秋の冷気が新田平野をおおい、やがて関東平野へとひろがっていくのが、はだで感じられるのだった。  眼下に走るひとすじの道、それは、栃木・桐生・前橋を結ぶ幹線道路であった。その道をいったりきたりする人間とリンタク、自動車や自転車が、ゆっくりと近づいてきては、またすいこまれるように消えていく。そのすべての動きも、そしてそこを立ちさりかねている私も、大自然のとめることのできない、おおらかな時の流れのなかにいるのであった。 〈乾物屋の娘さん〉 「新川《につかわ》の善昌寺という寺のお坊さんがこの地方の郷土史にくわしく、出土品もたくさん集めている」という話をお得意先で聞いたので訪ねてみることにした。  正月もすぎ、二月もなかばすぎたはだ寒い日の昼さがりだった。赤城山の南麓を桐生と前橋を結ぶ上毛電鉄の西桐生駅へ行った。電車がくるまでに間があるので、何か手みやげをもっていかなければと思い、駅前の露店をのぞいた。ときどき行商の品物をだしてもらって懇意になっている乾物屋さんの店へ立ち寄った。十八になる恵子さんが店のるす番をしていた。 「相忠《あいちゆう》さん(乾物屋さんの家族は私をそうよんでいた)、これから商売にいくの」  と恵子さんはからかうようにいった。 「まあ、そんなところでね……」 「寝坊したんじゃない? こんどの電車は、一時二十分発よ」 「みやげものにしたいんだけれど、安くて、うまくて、ガサがあるものはないかなあ」 「冗談じゃないわよ、そんなに調子のいいものはないわよ」 「何かないかなあ」 「お父さんがいったわ、相忠さんは商売に熱が入るとほんとうにいい男なんだけど、品物をだしてやると、ときどきへんな石ころなんかと交換してきちゃうんだから、まったく、しようがないってネ」 「お父さん、そんなこといってたかい」 「この間のノリ五帖もっていったお金、まだお父さんにやってないんじゃない?」 「…………」 「きょう帰りに家《うち》によって、あやまっちゃいなさいよ」 「きょうは、いけないんだな」 「ばかねえ、早くいかなきゃ、品物がだしてもらえないじゃない」 「ところで、何をみやげにもっていったらいいかなあ」 「どこへもっていくのさあ」 「新川の善昌寺というお寺へ行くのさ」 「まあ、あきれた、お寺へなんか、おみやげをもって何しにいくのさ」 「その、スルメイカいくらするの」 「一わ、それとも十わ」 「一わ、いくら? 安くしてくれないかな」 「だめだめ、相忠さんに安く売ったなんて、お父さんにいったらおこられちゃうんだもん」  このとき、構内に電車が入ってきた。 「じゃあ、三十円だけおいておくからさ、たのむよ」 「しようがないわね、お父さんに内証よ」 「もうしわけない」 「ばかね、男が頭をさげるなんて、だらしがないものよ」  といいながら、一わのスルメイカを紙に包んでくれた。急いで肩からさげた雑のうにそれを入れ、 「ありがとう、じゃ行ってくるね」  と店をでようとすると、 「さっきのノリのお金ね、あたしがきょうの売り上げのなかから、お父さんにうまく話して払っておいてあげるから、お父さんにいっちゃだめよ。お金ができたらあたしにちょうだいね。そうしないと、相忠さん、またお父さんにおこられながら、炭の買い出しやらマキわりやらでこき使われちゃうでしょ。そうなっちゃったら、相忠さんがかわいそうなんだもの、石ころ集めもできないしね」  私はそのことばに、あいまいな返事をして、混雑する駅に走りこんだ。  新川駅には二十分ばかりでついた。  途中、寺を聞きながら、丘や谷を通って、やがて丘陵の中腹にめざす善昌寺があった。石段をのぼっていくと小ぢんまりとした朱塗りの山門があり、正面の本堂左手が庫裡になっていて、本堂とほぼ同じくらいの大きさだった。 〈老僧とスルメイカ〉 境内はひっそりとしずまりかえっていた。庫裡に行く途中に鐘楼があって、そこに珍しく鐘がさがっていた。このころは、戦争中金物供出のため、ほとんどの寺が鐘楼だけで鐘がないのがふつうだった。庫裡の入り口で声をかけると、若い婦人がでてきた。 「なんでしょうか」  という。訪問の目的を話すと、私の姿に一ベつをくれながら、 「ちょっと待ってください」  といって奥へ消えた。しばらくしてから出てきて、 「どうぞ、あがってください」  といったが、私は、 「ここで結構です、お話をお聞きできればいいのですから」  と、ことばに気をつかっていった。 「お爺さんはこたつにいますから、どうぞ」  という。私は和尚さんはまだ若い元気な人と想像していたのだったが、意外にご年配らしいと思っていると、ゴホン、ゴホンとせきをするのが伝わってきた。 「それでは失礼します」  と座敷へあがり、障子をあけて奥の六畳間に入ると、そこには大きな切りごたつがあって、細面《ほそおもて》の上品なお年寄りがかがみこんでいた。私は改めて来意をつげてあいさつした。 「まあ、こたつに入んないかい」  進められるままに、和尚さんと相対して坐った。和尚さんは耳が遠いうえ、ぜんそくをわずらっているらしく、ときどきいっそう首をまげて苦しそうにせきこんだ。 「よくきたなあ、なんの商売してるんだい」 「日用品の行商です」 「わけえもんがいまどき珍しいな」 「どうも町んなかはそうぞうしくていやなもんで、行商はそこへいくとのんびりしてていいもんですから……」 「戦争に敗けちゃってな、なにもかもだめさ……これからどうなることか……おめえがたわけえもんがしっかりしなきゃだめだな」 「これからがたいへんでしょう」  そのとき、西桐生で買ってきたおみやげのことを思いだし、雑のうのなかへ手を入れたが、ハッと気がついた。年寄りにスルメイカ、それも寺へなまぐさものをみやげにもってきてしまった。だしていいものかどうか、迷ってしまった。それでもせっかくもってきたのだからと考え、ちょうどお茶を入れにきたさっきの婦人に、気づかいながらさしだした。 「これ、つまらないものですが」 「あら、なんだか、すみませんね」  と婦人は手にして部屋を出ていった。 「じつは、きょうおうかがいしたのは、ほかでもないのですが、このあいだ商い先で、和尚さんがたいへん郷土史にくわしいと聞きましたんで、できればいろいろとお教えいただこうと思ってきたんです」 「おまえ、そういうことが好きなのか」 「好きというほどではありませんが、少し、曙時代の郷土の様子を勉強したいと思ってるもんですから」 「戦争前はずいぶんさかんだったよ。わしなんかも雑誌なんかだしたりしてな」 「そうだそうですね」 「どこかそこいらに一冊ぐらいあるだろう」  といいながら苦しそうにせきこんだ。そのとき、さっきの婦人が皿にまんじゅうをのせてもってきた。 「おじいちゃん、スルメイカをいただきましたよ」  と告げた。その声がいやに大きく耳に入ってきて気まずかった。 「ほう、それは珍しい。わけえときは酒のさかなにやきイカはうまかった。いまはなにせ年をとってな、歯がだめになっちゃったからな、でも珍しい、焼いてきてくんな」  このことばに私はほっと胸をなでおろした。  おみやげひとつでも気をくばってもってこなければならないなと、つくづく思った。 「もらいものですが、よろしかったら食べませんか」  と婦人はまんじゅうを皿に分けてだしてくれた。  このときはじめて、けさから何も食べていないことに気がついた。 「このへんにはずいぶんいろいろな遺跡があるんですねえ」 「そうさな、まああるほうだろう」 「出土品もずいぶんあったんでしょうね」 「あまりいいもんはないがな。それでもいくつか珍しいものはあったな。本堂のほうに箱に入れておいてあるから後で見るといい。まあ、こういうことをやるときは、まず本をよく読むこったな」 「どういう本がでていますか」 「そうさな、いろいろあるがな、まあ、石器時代のことだったら、大間々《おおまま》に岩沢正作という学校の先生がいてな、�毛野�という雑誌をだしていた。もう一つ�上毛および上毛人�というのがあるが、これは大正からあるからたいしたもんだ……まあ、それらを読むとわかるだろうな。ほかは専門の本だな」 「そうですか、それだけの本が出ていると、同好会などもできていたのではないですか。それだけに趣味をもってる人たちもいて」 「そうさな、各市町村に一組ずつぐらいはあったろう。それに収集家もたくさんいるな、収集家になっちゃだめだ。ことに遺物はな、収集すべきものではないな」 「同好会なんかはどうしましたかね、いま」 「そうさね、こんな時世だ。もう郷土史などというものも当分はないだろうな。特別変わったものでもなければやらんだろうな。惜しいこったがやむをえないな……あんたは若い、みっちり勉強するこっちゃ、人間は勉強して損はないからな。そうして自分自身をよく見きわめるこったな。自分を知るこった。しかし、自分を知るころには、年をとって動けなくなる。動けるうちに自分を知るように努力するこった。その自分を知るにゃな、苦しんで苦しんで苦しむこったな、それを行《ぎよう》というてな、そうじゃ、あんたがやってるのは、行商といったな」 「はい」 「その行商も行《ぎよう》のうちに入るじゃろう。行をつむこった。そして自分という人間を見きわめてゆく。いいこった、いいこった」 「行商っていいものですね、いろいろな人間模様が手にとるように、じかに見られますからね。その意味ではいいことをはじめたと思います。その日その日の商いがおもしろいですよ。なおこれでもうかればですがね」 「あっはっは、それでもうかればわしもやるよ。おまえみたいなのがこの時世に郷土史だなどといってわしを訪ねてくれたのがうれしいな……まあしっかりやるこった。そうだ、この村の野《の》というところに、山木というものがいる。若い人だ。一度訪ねたがいいな。よい相談相手になることだろうよ……どうだ、食わないか、きらいか」 「じゃ、いただきます」 「みんな食べていきな」  私がまんじゅうを食べるのを老僧は、目を細めて満足そうに見ているのだった。  私はこの老僧との会話のなかに、心につきささるようなことばの重みを感じた。訪ねてよかったと思った。  冬の日の暮れるのは早い。ガラス戸越しに見える寺の庭にはもう夕闇がせまっていた。再来を約し、本堂の片隅につまれた十個ほどのガラス箱に入った遺物を若い主婦の案内で見せてもらった。畳敷きの堂内は、中央に須弥壇《しゆみだん》があり、その前に仏具が整然と並んだおつとめの座があった。その右側に生きもののように木魚がぽつんとおかれている。  私は、杉本寺の本堂や妹のねむる浄明寺の堂内を思い出した。  しずまりかえった本堂内に、一箱一箱きれいに並べられているいろいろな遺物を見ていると、いかにもところをえたもののように思えて、うらやましい気さえするのだった。    黎明《あけぼの》時代の遺跡と謎の石剥片の追跡 〈目標はきまった〉 私の手で集めた遺物は日に日にふえていた。  佃煮のあき木箱のなかの遺物は、何かを私に語りかけてくる。すりきれはじめた地図にも赤丸の点がふえてきた。その点もまた何かを私に語りかけてくるのだった。  心にえがいた黎明時代への夢、そこから生まれた深い大きな謎、この夢をのばし、この謎を解きあかしていくにはどうしたらいいのだろうか。ただ漠然として、集めるだけではなんにもならない。ひとつひとつ、順序を求めて解いていく手立てを考えなければだめだ。それには、集まった遺物や資料が、各時代にわたっているのと、種類がいろいろさまざまであるので、再整理してみることにした。  その結果、撚糸文《よりいともん》、押捺文《おしがたもん》、沈線文《ちんせんもん》など、縄文早期《じようもんそうき》の土器を出土する地点が二十ヵ所ほどになっていることがわかってきた。  この二十ヵ所余りの遺跡地のなお詳細な、立地環境や遺物の散布状況を調査して記録していくことと同時に、もっと広範囲に現地を探索していき、さらに、稲荷山前の赤土の崖から発見した剥片石器と同じようなものが、あるかどうか、この点を確かめていくことにした。  しかし、目標を実行に移すにしても、その遺跡を求める目安をどうするかということが問題になる。ちょうどそのころ、私の住んでいた長屋の西方にある丘陵地に、縄文早期文化のみの遺跡があるのを知り、採集をつづけていた。そこは桐生市街の北西の台地で、岡新公園とよばれる区域であったが、その当時は町の人が食糧補給のための畑地として開墾されていた。そこから、多数の土器片にまじって、石鏃《やじり》百個余りを採集していた。  私は、あらためてこの石鏃の型を分類してみた。  すると、縄文早期文化のみを代表する型があることを知った。私はそこで、この型の石鏃がでる遺跡を追跡していこうと考えた。石鏃は、訪れる先の農家や好事家のほとんどが、ひろいあつめてもっているから、調べるのに好都合だった。  こうして、求める目標と目安がきまったので、黎明時代の遺跡と謎の石剥片の追跡を開始したのだった。 〈混乱のなかで〉 二十一年の秋ごろから二十二年にかけて、桐生一帯では電力不足と称して夕方になると停電つづきとなった。このことは、あわただしい一日が終わり、かゆのような米飯とサツマ芋が並ぶ夕食のささやかな庶民の団らんをまどわした。  また市内の学校や住宅にガラス泥棒がひんぴんと押し入り、ときには何十枚というガラスが一夜のうちに盗まれてしまうということも報道された。  戦災にあわなかった町だけに、すべての善悪が集中していた。そうして、�関東の上海《シヤンハイ》�などという呼称さえ生まれてきていた。  そうしたなかで、若い有志のなかから、話し合いと奉仕と切磋琢磨《せつさたくま》の場として、青年団をつくろうということになった。学校の一室を借りて、停電なのでローソクの光をたよりに集まっては話し合いをもつようになった。  私も文化部の集まりに出かけては、よく遺跡や遺物を通した人間の祖先の生活などについて話した。一時はみんな興味を示して聞いてくれたが、大多数の者は、 「こんな時世に、遺跡や遺物のことなどなんにもならないじゃないか」  という意見のほうが強かった。しかし、青年団活動を通じ、折りにふれて話し合える友だちができたことは、たのしかった。  晴天でさえあれば、連日行商をつづけながら、遺跡を求めて歩いた。稲荷山の赤土の崖へも出かけた。そのたびに、何片かの石剥片を採集、全部で二十片になった。だが、土器片はまだ発見することができず、石剥片にはかならず赤土が付着しているのだった。 「もしかすると、石片は、赤土のなかに埋まっているかもしれない」  と思った。けれど、これだけ石剥片が見つかっているのに、なぜ土器片がないのだろうか。かならずといっていいほど、土器片と石器は、いっしょに発見されるのに。  さらに、剥片のなかに細石器らしい剥片が多いのも、私の解けぬ謎であった。この謎はさらに深く、日を追って私にやきついてしまった。  農村部では、強制開墾が農地解放とあいまってさかんに行なわれてきた。夕方には、開墾地から根焼きの煙がいくすじも立ちのぼった。  町を行く人の動きは、あわただしさ、はげしさをましてきた。だんだんと、ただ食糧を得るためにその日その日をすごすことから�金を残す��もうける�ことへ、揺れ動いていくのだった。商いとは当然そうであっただろう。私もいろいろな人からそのことをふきこまれた。が、私にはめざす目標があった。敗戦の混迷のなかから、人々はようやく、それぞれ明日への目標を見いだしはじめた時期でもあったのである。 [#改ページ]   第三部 岩宿発掘   高まる遺跡への関心    登呂遺跡の刺激 〈登呂発掘のニュース〉 戦後まだおちつきを取りもどさない昭和二十二年の春ごろまでは、行商の得意先などで遺物の話などしても、一般が示す関心は薄く、相手になってくれるものはきわめてまれだった。  しかし、その年三月ごろから、 「注視の的二千年前の村……」(登呂) 「十五万年前のウニ……」(大船で化石発見) 「登呂遺跡いよいよ発掘……」(登呂)  などの遺跡、遺物に関するニュースが報道されだした。そのトップをきり、連続して伝えられたのは、なんといっても登呂遺跡に関係したことだった。  戦後の遺跡、遺物関係のニュースは、終戦二年目にして桜とともに開花したともいえる。  その皮切りが登呂であった。  登呂は昭和十八年静岡市の南方で発見された、二千年前の村落社会および農耕の形態を知るうえの重要な遺跡で、戦時中から放置されたままになっていたが、その重要性を認めるすべての学者や関係者の協力で発掘にふみきったもので、大きな関心と注目を集めた。  それらの関心の裏には、新しい時代の開幕という国民意識のめざめ、新しい歴史教育のきっかけを求める人びと、生活の目標を求める庶民感情などがそれぞれ揺れ動いていたともいえる。  けれども、それが各地方一律であったかどうかは疑問であった。ただ、おおまかにいって、土中から出土する遺物、遺跡の重要性に目を向けさせる刺激になったことは確かであった。 〈古墳国群馬〉 では群馬県内はどうであったろうか。  かつて群馬県は�東国の古墳国�として知られた。上毛の三山、赤城・榛名《はるな》・妙義の各山やそのすそ野には、伝説や遺跡がじつに多い。戦前はそれらを探索しようという意欲が一般にもさかんだった。  戦後も二年目になって、ようやく地方の知識人が首唱する郷土史研究会のつどいが各地でもたれるようになった。みんなまじめな同好者ばかりが相寄り、おたがいに知識を広め、遺物の発見に着目し、なかにはその収集熱にうかされるものもでてきた。  戦前の収集家はその地域での多少なりとも裕福な人が多かった。だから、耕作地周辺の古墳をあばき、出土物をもったいつけてさしだせば、一パイの酒にありつけたり、何がしかの金品に替えることもできた。  珍品をあさって収集意欲を満たすには、まがりなりにも収集品の性質を知っていなければならず、ある意味では物|識《し》りである必要があった。そして、人より珍品を多く持ちたいということになってしまうのだった。しかもそれが何時代にかぎるなどの区別もいらない、なんでも珍しくさえあれば満足なのであった。  そうなると、珍品ほしさのあまり、つい手がでるというのか、古墳の盗掘がはじまった。  収集者にとっては、なんといっても古墳の出土品に魅力があった。埴輪《はにわ》にしても同じだった。それでもなお、古墳国の群馬では石器時代の遺物などはあまり問題にされなかったのである。  赤城山麓一帯に群在する古墳が荒らされたのもこういう理由からであり、後年、私たちの調査に大きな支障となり、発掘にさいし、いくたびかにがいいやな経験をなめさせられる結果となった。  さらにこの珍品あさりから、偽造物をつくり、それを売りつけることもさかんになった。いわゆる�藤岡もの�といわれたそれにいたっては、わざわざ古墳周辺の土中に埋め、それを農民に掘らせてホンモノと見せかけて、高く売りつけていたという。まことにふとどき千万なことが横行したのであった。 〈発掘夏の陣・冬の陣〉 遺跡の発掘調査の時期は、夏と冬が好適だった。それは、夏には野外活動に学校の休みで学生の応援を頼めるからであり、冬は寒冷気候で調査によっては支障があっても、樹木の茂りや畑作物がないため、発掘にはつごうがよかった。これはいまでも同じことがいえる。  毎年夏休みがはじまるころと、秋おそくから冬にかけて、発掘ニュースが新聞紙上をにぎわすのもそのためである。  私たちはこれを、発掘夏の陣・冬の陣とよんでいる。  昭和二十二年の発掘夏の陣は、「登呂遺跡」によって開幕した。以後、連日にわたって伝えられる報道は、各地の研究者を奮起させ、好事家を刺激するのに十分だった。  登呂発掘夏の陣に相呼応して、各地方で大小の発掘調査が、強制開墾と並行して進められてきた。  私は、桐生市周辺や赤城山麓の村々をまわりながら、縄文文化早期の撚糸文《よりいともん》・押捺文・沈線文土器を出土する遺跡の探索に余念がなかった。  家に帰ってくると、採集した遺物を水洗いし、つくだ煮のあき箱に整理しながら入れ、地図に採集地点を記入し、観察日誌を記録するのが日課であった。家のなかは木箱でいっぱいになってしまった。 「ひとり暮らしの若い男が、どこからかへんな掘り出し物を持ってきては、そのなかで寝起きしているよ」  との話がだれともなく語りだされ、長屋の話題になり、近くのおばさんなどは、 「あたしの実家のほうにもそんな石ころが出るところがあるよ、こんど買い出しにいくとき、いっしょにこないか」  などと私を誘った。そのおばさんは、何か出る——のはどちらでもよく、買い出しの帰りに荷を背負わせるつもりのようであった。  またそのころから、遺物に趣味をもつ人がときどき訪れてきては、遺物を見せてくれといってくるようになった。そのなかに、高校で日本史の教師をしている山曽野《やまその》という先生もいた。この人は熱心で、遺物を見ながら大むかしの日本人について語り合った。私のつくった分布図などを見て、 「こんどの文化祭で展示会をしたいから資料を貸してくれ」  といったり、ときには生徒をつれてきたこともあった。私は、来るものはこばまず、くる人ごとに、それまでに私の知ったことを話したり、遺跡のあるところを教えたりした。私だけの夢として、求めてきた遺物、遺跡が、こんなにも熱心な興味や関心をもたれるかと思うと、私は改めて驚きもし、うれしくもあった。    赤土の崖の謎 〈深夜の崖道〉 行商の帰り道、過日善昌寺の和尚さんが訪ねてみろといってくれた、野村の山木さん宅を訪ねてみた。  山木さんの家は、村でも目立つ大きな家だった。白塗りの土蔵と、頑丈そうな門構えであった。山木さんは土蔵から遺物の入っている箱を出してきて、なかの遺物を見せてくれた。いろいろな遺物があった。なかでも玉斧《ぎよくふ》や瓦には、すばらしいものがあった。  夕方おそくまで話し、夕食をご馳走になった。さすが豪農であった。出された白米のご飯がじつにおいしかった。すすめられるままに五杯ぐらいもいただいてしまったろうか。  食べながら山木さんは、 「近いうちに、前橋の川崎先生のところへ行ってみべえ」  といった。私はぜひ、連れていってもらうようにたのんだ。川崎良雄先生はそのとき、史跡調査員であり、土木出張所の職にあった。そして先史時代を専門としているとも聞いた。  山木さんの家を夜おそくなって辞したが、この夜道がたいへんだった。開墾がなかばすすんで掘り起こされた細道を、駅に急いだのだったが、どうしたのか方向をまちがえて、いつの間にか稲荷山前の赤土の崖のところを通って家まで歩くことになってしまった。赤土の崖道を通ったときは、もう夜もふけて十二時近かった。この赤土の崖と私との縁は今日までつづいているわけだが、後にも先にも、夜中の十二時すぎに通ったのはこのときだけだった。  しかし、なぜその道にそんなにおそいのに出てしまったのか、いまもってわからない。  数日して、山木さんと私は前橋に川崎先生を訪ねた。  ちょうど日曜で先生は在宅していた。山木さんに紹介してもらってから、私は大切に紙に包んで持っていった岡新公園から採集した撚糸文と押捺文土器の破片と、新里村の高縄というところで採集した沈線文土器の破片をお見せした。  先生は私の説明を聞き、その土器片を見てびっくりされた。 「このような縄文早期の土器片はまだ県下でも二、三ヵ所しかわかっていない、ひじょうに貴重なものだ」  といいながら地図を出してきて遺跡のある場所を教えてほしいというので、わかる範囲のことをお話しした。  このとき何冊かの雑誌を拝見しながら、いろいろといい話を聞くことができた。 〈山峡の村々〉 九月に入っていつか涼風が吹きはじめ、私はいそがしくなった。  いままで歩いていた場所が、ほとんど山麓の平野にある村々で、赤城の東麓の足尾線ぞいの村にはまだ出かけていなかった。そこで、その山峡の村に足を伸ばし、山峡にある遺跡の様子を調べてみようと考え、例によって地図を手に出かけた。  山峡の村がある場所は、平野部とはまったくちがっていた。  まず隣から隣へ行くのに、尾根を一つ越えるなどというところがあるかと思えば、高い山ふところに集まった家々もあった。  私はいつもと同じように一軒一軒たずねては商いをした。しかしはじめてのせいか、なかなかうまく売れない。  たまたま裏づたいに入った一軒の家でやっと縫い糸を買ってもらった。愛想のいいおかみさんであった。 「お茶でもどうですか」  朝っから歩きつづけ、のどもかわいていたので、一杯いただくことにして小さな縁側に腰をおろした。 「どこからきたのですか」 「桐生です」 「大変ですね、しかし若い人がよくこのような商売をやりますね」  と、感心顔で品物の入った「カン」のなかを覗きこむのだった。  このとき表のほうから男の人の声がしてきた。 「お帰んなさい」  とおかみさんが立ちあがるのと、その声の主が戸をあけるのといっしょだった。 「だれがきているのだ」 「商い屋さんがきているのですよ」  私は、なんの気なしにその男の人を見たとたんにびっくりした。なんと、駐在さんなのだった。  別に悪いことをしていたわけではなかったが、商いにもっている縫い糸は、統制品だった。それを駐在の奥さんに売ってしまったのだから驚いた。カンのなかにはまだ二十|スガ《ヽヽ》ほど白や黒の糸が入っている。さあしまった。逃げ出すわけにはいかず、どうなることかとびくびくしていると、駐在さんは制服をぬいで縁側の近くに腰をおろし、奥さんが入れたお茶をおいしそうにのんでいる。 「どうですか、もういっぱい」  と奥さんは、私にもお茶を入れなおしてくれた。 「いいえ、もう結構です」  といって帰りじたくをしていると、 「おいくらですか」  と奥さんが聞く。私は再びまいってしまった。ともかくこの日の商いはさんざんな目にあったわけで、はじめての土地での商いはむずかしいものだとつくづく思った。  それでも、帰りに立ち寄った農家のお年寄りから、むかし石鏃《やじり》を採集した話を聞き、いくつか見せてもらった。縄文時代の終わりごろのものらしかった。出土した場所を地図に記入して、その日は帰途についた。  これがきっかけとなって、足尾線沿線の山峡の村々を歩くことができ、何ヵ所かの遺跡を実地に踏査することができた。そして、はじめての商いに、それと知らずに飛び込んでしまった駐在さんの家には、その後も行くたびに立ち寄り、気軽に商いをさせてもらった。 〈キャサリン台風〉 九月初旬がすぎ、十二日ごろから天候は思わしくなかった。ときどき強烈な雨足が大地を打った。商いもできぬまま、私は家のなかの雨漏りと戦っていた。遺物の箱を濡らさないように移し、雨漏りのするところにはナベ、カマ、バケツ、あきカンと、わが家の勝手道具を総動員した。屋根にたたきつける雨音と、ナベ、カマをかきならす雨だれの音とで、わが家はにぎにぎしい狂想曲の合奏となってしまった。  十三、十四、十五日の桐生地方に、キャサリン台風が襲ってきた。渡良瀬《わたらせ》川、桐生川のはんらんはものすごく、大災害となった。  流失家屋は約百七十戸をかぞえ、倒壊家屋約三百九十二戸、床上浸水三百八十戸以上、床下浸水五千八百四戸以上、死者男女合わせて百十人におよび、負傷者百四十八名、橋の流失三十三ヵ所、道路および堤防の決潰四十八ヵ所、両毛線高崎方面は三日間、小山方面は約一ヵ月、東武線はほとんど全滅に近く、上毛電鉄も被害甚大で復旧の見込みはまったくたたないとのことで、桐生市は被害を多数だした上、孤立状態におちいってしまった。かつてない災禍に見舞われたのである。  十四日夜から十五日にかけて、私は青年団員として、桐生川地域の堤防の見張りに立った。立っている足もとの堤防が地響きをたてて揺れ、いまにもどこからかくずれてしまいそうだった。川は狂ったようにどすぐろい水をものすごい音をたてながら流している。いくかかえもあるような大木や丸太にまじって、流失した家のタンスが逆巻く流れにもてあそばれるように下っていくのだった。まさに修羅場《しゆらば》だった。  台風のおそろしさ、大自然の猛威の前に人間はあまりにも無力だった。私は遠い祖先の人類の苦闘を思わずにはいられなかった。 〈台風一過〉 キャサリン台風から一週間ほどすぎた日、私は久々に商いをかねて、笠懸村稲荷山前の赤土の崖へ向かった。道々いたるところに無惨《むざん》な爪跡がなまなましい。その上に何ごともなかったかのように、秋の陽光がさんさんと照っていた。  赤土の崖に近づくと、ところどころ断層状に小さくくずれ落ちている。私は、片側から、全神経を崖の断面へ向け、くずれ落ちたブロック状の赤土塊を注視していった。すると、まずくずれた赤土塊の割れ目に、一つの石剥片があるのを見つけた。なおよく見ていくと、赤土の断面に突きささったように、もう一片、顔を出しているのを見つけた。  それは表面から七十センチ、赤土面から五十センチのところにあった。  つづいてまた、少し離れた落土中に一片、というように、このとき私は、大小合わせて十片ほどの石剥片を両側の崖から採集することができた。そのなかには黒曜石のものも数片あった。  しかし、土器片はあいかわらず一片も出ない。どうもここから出る石剥片は、赤土のなかから出るのではないか。 「赤土のなかから石剥片が出る……そんなバカな?」  私は自問自答しながら、手にした石剥片と崖面とを見くらべて考えつづけた。赤土のなかからといっても、あとからくずれ落ちたとも考えられる。それに、これまでにここで見つけたものはすべて石剥片だった。なんとか、加工され、形づくられた石器を見つけねばならない。そしてまた、なんとかして土器を見つけなければ、ここの遺跡の謎は解けないと考えた。後ろ髪を引かれる思いで山寺山にのぼる木立ちのなかの細道を歩きながら、私は思案にくれた。 〈どうして、土器がないんだろう……〉  その夜、これまでに採集してきた、赤土の崖からの資料を出し、並べて比較してみた。どうもわからないことだらけになってきてしまった。  縄文文化早期の資料も出してみた。こちらのほうは、資料もそろってきていた。撚糸、沈線や押捺・爪形《つめがた》・縄押《なわおし》などの模様がつけられている土器片、石鏃、石斧、石皿や石きりと、石剥片の石器はその種類も多かった。そして遺跡の所在地点などだんだんに当時の人々の生活の有様が、私の頭のなかで復元されてくるように思えてきた。  早期の遺跡がこんなにもあり、また資料もそろってきているのに、なぜ赤土の崖からの資料は石剥片だけなのだろうか。疑問がつぎつぎにわきあがってくるのだった。  ともかくも、その謎を解くには、どうしても早期文化をさかのぼりながら解いていかねば……と、心を新たにするのであった。    東京の先生たちとの連絡 〈ある考古学者の教え〉 四月の末、朝から曇り空のうすら寒い日だった。私は西桐生駅から上毛電鉄に乗って、戦災の跡もまだなまなましく、焼け残ったコンクリートの骨がさらけだされたままの中央前橋駅に降り立った。  群馬師範学校に尾崎喜左雄先生を訪ね、郷土の黎明期時代、また赤土の崖での疑問を、より学問的に追究するための基礎知識をどのように勉強すればよいか、その方法などについて教えを乞うためであった。先生は日本考古学の先学、故黒板勝美博士に師事され、上代文化を専門に調査研究のため、わざわざ関東の古墳を求めて、ここに着任されたと聞いていた。  学校は歩いて二十分ほどのところにあって、前橋市東北部の清王寺町に、堀のような溝川と築地でマス形に囲まれ、校舎の並ぶ北東の一角、倉庫と三世帯が一軒になった長屋の官舎に先生は住んでおられた。  先生は私の話をひととおり聞かれてから、物静かなやわらかい口調ではあるが、その奥に厳しい信念をこめていわれた。 「趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか、まず自分でやることにけじめをつけなさい。事実の追究をするのだったら多くの文献を読み、着実に事実の集積をつみあげていくことが大切です」  私は、これまで私なりに目標を定めてきた、これからもやっていきたいというと、 「事実の集積と学問とは同一であって同一ではない。事実であってもそれを学問のなかにとり入れるというのは容易ではなく、忍耐と努力、そして着実な勉強が大切である。そして考古学という学問は、一ヵ所や二ヵ所の遺跡発掘報告書を仕上げても結論は出せない。より総合的な考察が必要である。井のなかの蛙《かわず》にならず、考古学が好古《ヽヽ》学にならぬよう、着実におやりなさい。あなたにもきっと事実の集積はできる。そのことが学問の基礎となり、勉強ということなのですよ」  と、諄々と説いてくださるのだった。先生の一語一語には、私が何よりも求めてやまなかった�学問の心�があった。それはその場でとってつけたものでは決してない、長い年月の学究の厳しさがこもっていた。厳しさのなかに、深い学問への愛情と情熱がひそんでいた。その一語一語を、私は脳裏に刻みつけるように夢中になって聞いていた。先生のお話は強く私の心を鞭うち、私のすべてを先生に知ってほしい願いにかられてお話しした。気がついたときはもう深更におよんでいた。  先生の話は、後々までも役立つ勉強の方法を教えてくださったもので、私はこの日から先生の教えを信条として、あらためてさらに追究を押し進めていった。しかし、これまでの採集資料は、石剥片だけであった。なんとか完全な出土状況、それに石器を見つけたいと思い、毎日のように赤土の崖へと通いつづけ、観察調査をつづけた。 〈東京へ手紙を出す〉 その後、川崎先生の家へは、何度かお訪ねしたのだったが、台風のために連日徹夜の仕事で役所に行ったきりということで、お会いする機会を失っていた。  私の心のなかでは、なんとか専門の研究家にお会いして、いろいろと教えを乞いたいという願いがあふれていた。しかしまた一方では、一介の行商の身が大それた考古学などということについて、大家を訪ねることさえ、気がひける思いであった。  しだいに強く大きくふくらみはじめた黎明《あけぼの》期への夢が、そうやすやすとは、求め得ないことなのだという不安と畏怖すら覚えてくるのだった。  それでもなお、どうしても縄文早期文化について、もっとくわしく知りたい。後藤先生がくわしく書かれたものを読み返せば読み返すほど、もっとくわしく、じかに教えてもらえたら……という願いがつのり、ふと博物館の数野さんのことを思い出したりもした。  このころになって、考古学の雑誌や報告書などで、早期文化の研究者としてよく報告や本を書いている人たちに、芹沢《せりざわ》長介、江坂輝弥《えさかてるや》、吉田|格《いたる》の三人の先生がおられることを知った。それは直接には川崎先生からうかがっていたのだったが、先生はそのとき、若い新進気鋭の学者であり、縄文早期文化の専門学者であるといわれ、折りがあったら手紙でもだして相談してみたらどうかと、住所を教えてくださったのだった。  一地方人にすぎない無学の私のようなものが、大学の先生方に手紙をだしても、はたして返事がくるかどうか。相手はとても私ごときの手のとどかない地位にいる人たちと考えていた。  そのくせ、いてもたってもいられないくらいこの願いは私のなかにふくらんでしまっていた。日ごと夜ごと、たまってきた資料を整理しながら、じっとしていられなくなった。  思案のあげく、私は、一通は東京大学考古学研究室にあて、もう一通は市川の国府台《こうのだい》に設けられたばかりの考古学研究所あてに、心をこめた手紙をだした。十月末から十一月初めにかけてのことである。  秋は深まり、私にとって遺跡歩きに絶好の季節が訪れてきていた。たまたま、商いの足を赤城山南東麓にある新里村の高縄部落へ向けた。  ここは標高二百メートル前後の、すそ野では中段ともいえるところで、いくつかの浸食された深い沢があった。 〈トロッコ押しの人々〉 この部落の西北に童沢《どうざわ》というところがあり、灌漑用水のための貯水池工事がはじまり、その堤防づくりの埋め立て作業がはじまっていた。ちょうどその日、そこに二台ばかりのトロッコを押す人と、モッコをかつぎながら土を運搬している七、八名の人がいた。  私は近寄って話しかけた。 「何か出ませんでしたか」 「出た、出た。|かめ《ヽヽ》に小判がごっそりな」  四、五人が手を休めていいだした。 「小判はもうねえが、入っていたかめだけは、とってあるだんべえ——」 「ありゃあ、平《へい》ちゃんがもっていったんべえ——」 「平ちゃんも、あんなもの好きだからな」  集まった人は、私にいっているのか、自分たちでしゃべりあっているのかわからなかったが、何か出ていることだけは確かだった。そのなかの一人が、 「みてきてやんべえ」  と飯場のほうへ行く。 「あんたも、そんなことが好きかい」 「好きというほどではないのですが……」 「小判でも出りゃ、こてえられねえんだがなあ——仏さまじゃかなわねえ」  といいながら、みんなは作業を再開した。  モッコに泥土をつめこむスコップの手に力を加えながら、 「平ちゃんがいたら、あんたと話があうだんべになあ」 「どこへ行ったい、なんだか昼を食ってから会議があるとかいってただがよ」  私は、その平ちゃんという人物がどんな人であろうかなどと考えながら、土取り予定地の空地を見て歩いた。五センチ四方の小さい土器片が点々と散らばって見つかった。それを採集していると、押捺文土器の破片が二片ほど見つかった。規則正しい山形模様が五条ばかりきれいについたものだった。ここはいつか商いの途中で立ち寄り、ここにも早期文化の遺跡があることを知った所でもあった。私は深い沢の流れを見ながら、この押捺文土器を使った人びとが住んだころは、沢はもっと浅かったろうと、遠いむかしの光景に思いをはせた。 「ねえ、ねえ、持って行っちゃったんだんべえ、飯場の壁に墨で押した模様のがあったんで、とってきてやったよ」  といって、一人が差し出してくれた。 「平ちゃんの家はすぐそこだ。帰りに寄ってみちゃどうだんべえ」  と教えてくれた。なお採土地域内を歩いてみると、二十片ばかりの土器や石器の破片を採集することができた。 「この畑もぜんぶ土を取ってしまうのですか」  と聞いてみると、「そうだ」ということだった。�平ちゃん�とよばれる人の家に立ち寄ってみたが不在だったので、後日また訪れることにした。  夜、採集してきた土器片や石器片を洗って一つ一つを検討した。そのなかに十片ほど撚糸、沈線、山形の模様がついている土器片が、多くの縄文土器にまじってあることがわかった。  高縄にも黎明《あけぼの》期の祖先の生活した跡があることが確認された。しかし、ここも工事のために採土されとり壊されてしまう。できることなら早期土器の埋まっている様子を知りたいものだ。なんとか発掘はできないだろうかと、しきりに思った。もしそれがわかれば、稲荷山の赤土の崖の石剥片の謎も解けるかもしれないと思うのだった。  翌日もまた高縄の地を訪れた。たまたま工事が休みらしく、現場にはだれもいなかった。私は平ちゃんの家を訪ねてみた。平ちゃんとよばれる人は折りよく在宅していたが、意外に年配者で細面のきりりとしまった顔立の人だった。 「この間は失礼しました。あんたが帰った後にもどってきたので、すぐ後を追っかけたのですがわからなかった」 「それは、どうもすみません」 「工事場から出たものをもってきてあるから見てくれませんか」  とていねいな口調でいう。私は無造作《むぞうさ》にあき箱のなかに入れられた土器を、一つ一つ見せてもらった。その大半が縄文土器の諸磯《もろいそ》式に該当する土器であった。平ちゃんとよばれるその人は、長沢平八という人で、農村に住むかくれた博学の人であった。  私は、これだけいろいろのものが出てくる土地は珍しいから、ぜひ発掘して調べてみたい、何とか掘らせてもらえないだろうかと思った。できれば、来月の休日に発掘できるよう、長沢さんから現場主任に話していただくことをお願いしてその日は別れた。私はホッとした。 〈高縄遺跡の発掘〉 十一月三日、高縄の工事現場を発掘することになり、青年団の友人や学生諸君の手を借りて、移植用のショベルや竹ベラを使い、慎重に発掘を実施した。  表土から三十センチほど掘ると、土器や石器の破片があらわれ、七十センチほどで赤土の層に達した。黒土と赤土の境に撚糸や押捺模様のついた小さな破片があらわれてきた。  赤城山の偉容が青空のなかに浮きでてそびえる下で、みんな泥まみれになって掘り進んだ。赤土の層も掘り下げてみたが、そこからは何も出てこなかった。  この発掘で、私は、ひとつの事実をつかんだ。それは、撚糸文や押捺文、沈線文などのグループが、高縄遺跡では赤土のなかにはその包含層がなく、黒土と赤土の境にあるという事実であった。そしてまた、土器、石器が共存しているという事実も知った。この土器グループが日本で一番古い稲荷台式のグループであることは、おそらく決定的であろうとも思われた。  さらにその土器グループが南関東と東北地方および信越地方のものとがそれぞれあることもわかった。縄文文化、黎明期の土器グループに対して、高縄遺跡の発掘で、はじめてメスを入れたともいえた。それは結果論になるけれども、小規模の発掘とはいえ、群馬県における縄文文化|黎明《あけぼの》期遺跡調査の第一号となったのだった。  最も古いといわれた土器グループは、赤土にはない。この事実によって、稲荷山前の赤土の崖から発見された石剥片の謎の解明を一歩前進させることができたのだった。  しかし、その事実だけではまだ弱い。まだほかに少なくとも四、五ヵ所は、まったくちがった地形の場所で発掘して、比較してみなければ釈然としないのであった。    明るい光照らす 〈考古学研究所の返信〉 ひとり暮らしの生活、そして行商で食べる道をたどりながら、私の生きる支えとなるものは、黎明期の謎をさぐることであった。村から村をめぐり、赤城山麓のすそ野道を歩きながら、そこに残る遠いいにしえの遺跡を求める。この夢こそ、私をどうやら、この二年の間、支えてきてくれたのであった。  一見、なんでもない瓦礫にひとしい、ものいわぬ土器片や石器の破片、その一つ一つに祖先の体臭がしみこんでいる。その一つ一つが、祖先の、太古に生きた鼓動を伝え、私に、何かをささやいてくるように思えてならないのだった。  その日も、同じような繰り返しの後、私はひと息入れていた。  ふと、見るともなく玄関兼勝手口の入り口の土間に、一枚の郵便はがきが落ちているのが目についた。 「どこからの郵便かな?」  と思いながら、手にとった瞬間、私はハッとした。差出人のところに「考古学研究所」と黒インキの印がおしてあったからだった。  私は急いで文面を読んだ。 [#ここから1字下げ] 御書面拝見しました。押捺文および撚糸文土器の発見は非常に興味深くぜひ機会をみて御地方へ調査にゆきたいと考えています。できたら拓本でも御送り願えたら幸いです。とにかく御奮闘を祈っています。雑誌も近々できる予定です。 二号に御地の報文でも御寄稿下さいませんか。取急ぎ御返事まで  匆々 [#ここで字下げ終わり]  以上がそのはがきの全文であった。私は、おそらく返事はこないだろうとなかばあきらめていたのだが、その返事がいまきたのである。私はパッと目の前が明るい光に照らしだされたような気がして、何回となくその文面を読み返してはわが目を疑ったりした。  昭和22・11・18の丸い消し印で、発信人の氏名はなかったが、ともかくも私はうれしくて、足が宙に浮くようであった。そのうえ、「報文でも御寄稿下さい」と書いてあるのには、まるで夢のような気持ちだった。  びくびくしながら書き送った手紙の、これが正真正銘の東京の「考古学研究所」からの返信なのだった。こうして、専門の先生たちと私との連絡はとれたのである。  なお、この書面を書いて送ってくださったのが、後で、赤土の崖�岩宿�の発掘で、ともに感激の場に立った芹沢長介先生だったことを知ったのは後日のことだった。  私は、高縄ではじめての発掘を試み、早期の遺跡を掘りあてたこと、そして続いて、専門家の先生との連絡がとれたことの重なる喜びに、よりいっそう、探究のファイトがわき、一刻もじっとしてはいられなくなった。 〈吉田先生が調査に来桐〉 東京からの郵便を受け取り、その感激にひたっていると、後を追うように電報がきた。  「○日ユクヨロシクタノム」  という。もう私は何ひとつ手につかなかった。吉田格先生が桐生の私を訪ねてくるという電文だった。  ——吉田先生とはどういう先生だろうか?  私はどこでどう知り得よう手だてもなく、自分なりの勝手な想像をしながら、来宅したときの食事の用意や、泊まるときにはどうしようかなどの思案にくれてしまった。  十二月二十日、私には年の瀬も正月も格別のことはなかったが、押しつまってあわただしさが漂う桐生の町に、吉田格先生は東京からきてくださった。もちろん初対面であるが、改札口を出てきた先生を、私はすぐにわかった。  私は感激で夢中だったが、はやる心をおさえて、わが家へきていただいた。つくだ煮の箱に整理してある採集資料を見てもらうためだった。吉田先生はまず遺物の数々をつぶさに見て、縄文文化早期の遺物がこんなにもたくさん集めてあるのにびっくりしながら、遺物の石剥片、土器片の一つ一つを手にして、専門の考古学の立場から説明してくださるのだった。  先生の話は、私にとってすべてが重々しくて大切な知識ばかりだった。  八幡先生と後藤先生の書かれていた本を何冊か読み、縄文早期文化についてはあるていど知っているつもりだったが、なんといっても実物を示しながら教えてもらうのは、じつに有益であった。私は私自身が確認され、その上に新知識も多く学ぶことができて、まったくうれしくてならなかった。  吉田先生はぜひ高縄遺跡に出向いてみたい、とのことだったので、私は三名の高校生の協力を頼み、翌二十一日、現地に先生を案内した。ほかに、毎日新聞桐生通信部の松田勇作さんも加わった。松田さんは、十一月三日の発掘状況について、十四日付けの県版に、 「山形押捺文土器が出土——八千年前の住居跡か」  という見出しで報道した記者なのだ。そして、この記事が、群馬県における縄文文化早期遺跡の存在を報道した第一報であった。  三日に発掘した場所近くのところを小試掘してみることとし、私は長沢平八さんの家からショベルの大小を借りてきて掘った。  結果は、十一月三日の発掘のときとまったく同じだった。そして、少量ではあったが、黒土と赤土の境目のところに、撚糸文、押捺文、沈線文のある縄文早期文化の土器片があらわれたのだった。  撚糸文は稲荷台式、無文のものは花輪台式、沈線文のは田戸式と三戸式、山形文は稲荷台式か田戸式にともなうものであろう、と吉田先生はいわれた。そして、この遺物グループはおそらく関東最北端の遺跡であり、研究上にもひじょうに重要になろうといわれた。  横になることもできないわが家で、先生は一泊して帰られた。  何ももてなすこともできなかったのに、私は、先生が喜んで帰京されたことがとてもうれしかった。そして二十五日、再び毎日新聞の県版にこの調査の模様が報じられたのだった。 〈東毛考古学研究所誕生〉 私はこれまでの同好者や、川崎先生、つづいて吉田先生から聞いた有益な話を総合して考えなおし、ただたんに、私の心のさびしさや孤独を癒やすための友として求めつづけてきた、黎明《あけぼの》期の祖先の生活の遺跡や遺物が、歴史学、考古学という学問の立場から、そしてまたその研究上、じつに重要なものであることを改めて知り、決して私的なものでなく、公的な大切なものであることも思い知らされた。そして、せっかくここまで求めつづけてきたことであり、それがいま、東京の専門家の先生方に認められたとあっては、なんとかして、学問研究の上に役立つように努力していきたいし、それが義務であると思った。それにはしっかりした目標を決めて、さらに深く調査と探索をつづけていかなければならないし、その基本を勉強することこそ、いまの自分にとって急務であると、考えたのであった。  しかし私には、学問だの研究だのということは、あまりにも縁遠いことだった。自分自身の過去を考えてみても、それを口にすることさえできない身分という事実が、心をおおってくるのだった。その身分というものをわきまえずに学問だの研究だのということをできるものではない。学問研究はより高等の教育をうけてはじめてできることである。私はそう思っていた。  けれどもいままで、私が探し求めてきた遺物や遺跡が、専門家によって認められてくると思うと、群馬県下にとくに多い遺跡や遺物の探索と研究の記録は、私にもその一つ一つを整理し記録して、報告することができる、またそうしなければならぬと考えるようになったのだった。  それには、ただ遺物を集めることだけに熱心であってはならない。考古学という学問のなかで、さらにつっこんで問題を追究し、真実を求めていかなければならない。そして、つねに専門の学者と密接な連絡をとり合っていかなければ、せっかくの資料も生かすことができない、とようやく決心することができた。  私はこの自分の決心をくずしてはならないと心に誓い、小さいながらも「東毛考古学研究所」を創立することにした。この基礎となるものは、いままで探索してきた数々の遺物であり、収集した遺物にもとづく何ヵ所もの遺跡である。 「赤城山麓における縄文文化早期初頭遺跡の基礎資料の集成」  私は研究所の創立目的をこう決めて、以後、集成の記録と報告にあたることとしたのであった。この研究所誕生が毎日新聞の県版に報道されたのは、昭和二十二年十二月二十日であった。    にがい経験とかべ 〈消え失せた土器〉 昭和二十三年の新年が明けると、早々から私は、縄文文化早期遺跡の追究と、赤土の崖の謎を解明するために、本気になって取り組みはじめた。  正月すぎ、暮れに出た研究所創立の新聞記事の反響があって、同好者はもちろん、学校の先生、学生たちが、遺物を見たいといって大勢訪ねてくるようになった。私はその一人一人を喜んで迎え、そのたびに石器時代の話をしたり、遺物を見せたり、また遺跡へもいっしょに行ったりした。なかでも、山曽野先生は生徒たちを連れて足しげく通ってきた。 「こういう研究をしていくにはお金がかかるものです。お金を得るためには、会を組織してやるか、高校のクラスに郷土研究班を設けて発掘のときなど生徒を手伝わせたらいい」  といってすすめてくれた。  また同じころ、山洞《さんどう》という事務員をしている人が訪ねてくるようになり、 「私は考古学のことはよく知らないが、写真が好きで撮っている。発掘のときなどには必要でしょうから、いつでも遠慮なく話してください。いつでも撮ってあげますよ。それから、こういうことは一人では何かとたいへんだ。ましてや先生が東京から見えたときなどに宿に困るでしょうから、そういうときは遠慮なく話してください。家にお泊めしてあげますよ」  といってくれた。私にはそれらの親切が身にしみてありがたかった。 「こんど東京から先生がこられたときはどうかよろしくお願いします」  とお願いした。  一人、二人と同好者もふえ、ふつうならおつき合いもできない人たちとも、知人になることができ、毎日が活気あふれる日々となってきた。  二月に入って、桐生の岡新公園の遺跡を掘ってみたが、高縄のような成果はあがらなかった。かならず出ると思って、相当深いところまで掘ったがだめだった。耕作や開墾のくわがかなり深い土をかき乱してしまっていたのだ。しかしそれでも、地表面には相当量の早期の遺物があり、当時知られてきたばかりの花輪台式の土器片もあることがわかった。  十日すぎ、私はかつて金子熊治さんが開墾した菱村の金屑台地の空地を掘らせてもらった。この台地は戦時中は学生の訓練場となっていて、「東光台」とよばれていた。�金屑�とは、むかしの製鉄所跡があって鉄屑がでるところからそうよばれてきたという説もあるが、正しいようだ。私はこの台地の低いところから、鉄屑とフイゴの口をいくつか採集していまでも整理して保存している。  さて発掘してみたら、ここでは思いがけなく諸磯式の住居跡にぶつかった。初めての住居跡の発掘だったので大いに意気ごんで掘った。人手を頼んで掘りたいがお金がかかるのでほとんど一人で掘り進めた。そのため半日は商売に出かけて、半日は掘ることに専念する毎日だった。食べなければならなかったからである。さすがに住居跡の発掘ともなると容易なことではなかった。それを伝え聞いて高校生の愛好者が、土、日曜を利用して応援にきてくれたので大助かりした。  こんなとき、私の助手みたいによく手伝ってくれる山越君がもっぱらじまん焼きやイモヨウカンを買いに町まで行ってくれた。学生たちとそれをほおばりながら語り合う休憩時間は、はるかな遠古の史跡で現代に生きる若い人間たちがなんの屈託もない笑い声をあげる、意義深い喜びを覚えるひとときだった。  そんなある日、住居跡の床面を掘っていると、中央のところから、なんと焼土とともに土器がいけられてある「炉跡」が見つかった。私は狂喜した。もう夕暮れ近かったのでまわりをきれいにし、山洞さんに写真を撮ってもらって全部掘るのは翌日にまわすことにした。そこで掘った後を埋めなおしてわからないようにして夕闇のなかを帰ったのだった。  翌日、早々に行って掘ってみようと思ったが、少しでも商売をしないと食べるものがなくなってしまうので、私は近くだけを行商して歩いて昼すぎに家へ帰った。午後はあいにく雨になったので、遺跡にはもう一日おいて出かけることにした。  さてその翌日、埋めなおした土を山越君の手を借りて少しずつ掘っていった。ところが掘っていくうちに、あるべきはずの土器があとかたもなく消えてしまっているではないか。最後までそんなはずはないと期待しながら掘ったが、ただ一片の小さな破片が出てきただけであった。  このとき、私はくやしいやら腹立たしいやら、どうしようもな憤《いきどお》りでいたたまれない気持ちだった。 「だれが、いったい何を目的に盗み去ったのだろう?」  しかもその掘り方が、しろうとの手ではない。土器のあった場所だけをていねいにヘラで掘り下げてとりさっていったことがはっきりわかった。しろうとが掘り散らかしていったのではないことが明らかだった。  そこに埋めなおしたことを知っているのは、私と山洞さんのほかに二名だけしかないはずだった。まさか山洞さんが……と思ったが、念のために山洞さんの家を訪ねてみた。  山洞さんに、土器が掘られてしまったと話すと、山洞さんはそう驚いた様子もなく、 「そうですか、すぐ掘りにいかなければだめですね」  と他人事《ひとごと》のようにいっただけだった。  土器は盗まれてしまったけれど、住居跡の輪廓だけでも調べねばならないと思いながら、それからは気が抜けたような調査になってしまった。  この話を私は史談会の会長の八木昌平先生に話した。八木先生は、 「そりゃ気の毒だ。すぐ行ってみよう」  と、老齢にもかかわらず、現地まで出向いてくださった。毎日新聞の松田さんもいっしょだった。私の説明に、 「しろうとではない、いくらか知っている人間のしわざだ、これはひどいことをする」  と、二人とも怒りの声をもらしていた。  それでも、桐生の周辺からこれだけの古代遺跡が発見されたことは桐生の古代史も研究が進んだものだと、ひじょうに喜ばれた。  東光台の発掘は、このように、初めての住居跡の発掘として私には忘れ得ぬ思い出となったが、なんともにがいしこりが残ったのは悲しかった。  二月中旬すぎ、この金屑遺跡のことが大きく報道されたが、そのすみっこに「発掘土器を盗むな」という見出しの記事もそえられてあった。  それから半月余りして、山洞さんがひょっこり訪ねてきた。 「掘ったものだって悪気があってやったわけではないだろう。名前はいえないが返してきたからもってきた。あんなことを新聞なんかにだすもんじゃない」  と気色《けしき》ばんでいう。そして、箱は返すのだからといって差しだした。箱をあけてみるとびっくりした。金屑遺跡の炉跡からでてきてまた埋めもどした土器が、無惨にも五センチぐらいに細かく砕かれたまま入っていたのだった。  私は、それを見た瞬間、胸がふさがる思いがして、口にすることばもなかった。無念やる方ない気持ちと、遠い祖先の人間への思慕に、身も心もふるえてとめどもなく、何者かへわびる心と何者かへ怒る心が交錯した。  しかし私はこのとき、山洞さんに礼をいうべきだったのかもしれなかった。私はまだ若かった。ろくな返答もできないまま、箱をあけて返すのがやっとだった。  このときの土器はいまもって私の整理箱のなかにしまわれている。そしてそのとき、だれが掘っていったものかはついにわからずじまいであった。  ただ、遺跡地を早く埋めてくれと耕作者がいっているからすぐ埋めてくれと、これも山洞さんからの伝言だった。こうして金屑の発掘は後味わるい中止のような結果になり、三月末、山越君の手を借りて一日がかりで埋めたのだった。が、山洞さんはそれっきり私の前に現われなくなった。そして山洞さんは、今はれっきとした考古学者として、地方でいろいろなことを書きつづっている。  四月に入ってから、吉田格先生が再び来宅された。このときは八木先生と私と山越君の四人で桐生市の西北山麓の西堤町から川内の遺跡を案内したのだった。 〈いくつかのカベ〉 私にとってにがい思い出をのこした金屑遺跡発掘のあと、つぎつぎと考古学関係の大家や大先生が桐生周辺を訪れるようになった。私は大先生がたが来訪されることはありがたかったけれど、そのグループごとに、それぞれ主張があって、たとえば遺跡の取り扱い方についても、考え方がちがっていることを知って、気が重かった。  桐生へきた発掘グループのおもなメンバーを考えてみても、学界におけるライバル関係が二分、三分されていることがわかる。  昭和二十三年二月から三月にかけての普門寺遺跡の発掘には、山洞・山曽野グループが、山内(清男)、酒詰(仲男)、渡辺(仁)の三先生を中心とする東大人類学考古学研究室と結んでいた。  二十三年五月に行なわれた二ツ山古墳の発掘は、慶大考古学研究室の藤田先生および江坂、清水両先生の手によって実施された。  また、二十二年十一月の高縄遺跡発掘のさいには、吉田先生が来られ、二十四年初めの小谷戸《こがいと》遺跡発掘には甲野勇先生が単独で来られた。吉田、甲野両先生は江坂、芹沢両先生とともに、日本考古学研究所に所属されていた。学界には学界で、それぞれ相違し、相容れない世界が渦巻いていることを、このとき私は知った。  各地で考古学ブームが起こり、発掘調査が活発になっていった。  かつて、私のところに遺跡地の所在や遺物について聞きにきて、拓本のとり方も知らなかった山曽野先生は、同好者を集めて会を組織し、生徒を使って、縄文であろうと、弥生古墳文化であろうと、なんでも珍しいもの、あるいは土中に埋まっているものでさえあれば手当たりしだいに発掘をし、遺物あさりをやりだした。  それだけならいいとしても、先輩たちの残された学問研究の書から適当に都合のいいところを抜粋《ばつすい》し、資料を利用して記載したり、パンフレットにして配布するようになった。私はそれを知って愕然とした。たまらなく悲しかった。そのなかには、私が桐生周辺と赤城山麓の黎明期追究の要地としていた岡新公園遺跡をはじめ、いくつかの遺跡が、なんのことわりもなく取り扱われていた。調査の目標も研究の主体性もまったくないままに、ただ遺跡の珍品あさりに狂奔するだけなのだった。  加えて、彼らは、行商人のやっていることなど学問ではないとして、その地位を利用して私の調査に圧迫を加えてきたりした。  私は、それまで、訪ねてくる人にはかならずお会いし、同好者としてすべての資料を見せ、遺物や遺跡の発見地点についても説明していたのだった。けれども、その結果が逆に遺跡地が荒らされるという不安が生ずるのなら、心をひらいてなんでも話してしまうわけにはいかなくなった。ほんとうにさびしいことであった。  赤土の崖の謎は、うかつに話し合える人もなく、ただ私ひとりの追究となり、ひたすらに縄文早期の文化を追って、解明に努力していくよりしかたなかったのである。  参考までに、昭和二十三年の発掘踏査行の日記から主なことを表にあらわしてみると、つぎのようになる。いま考えてみると、この年の踏査は、岩宿への長い道程のなかで、私にとってじつに意義ある貴重な経験であったといえる。そして、思いがけないいくつかのカベを乗り越えて、ひとつの到達点に達することができた後々までも、この年の経験が生きてくることにもなったのだった。 〔昭和二十二、二十三年発掘踏査行〕 (月 日)(天気)(地域および目的ほか) 昭和22年 11月3日 晴 高縄発掘調査 昭和23年 3月10日 曇 桐生岡新公園遺跡踏査 3月24日 晴 吉田格先生来桐東光台住居跡実測 3月30日 晴 東光台遺跡発掘地埋めもどし 3月31日 晴 川内村しし田の弥生遺跡調査 4月18日 晴 吉田格先生再び来宅、八木昌平、山越靖久さんらと堤、川内方面を踏査 5月8日 曇 新田郡生品二ツ山古墳発掘(慶大藤田先生主査) 5月15日 晴 二ツ山古墳採集の埴輪を慶大に寄贈するため二ツ山古墳発掘地へ持参 5月16日 晴 二ツ山古墳調査 5月21日 晴 栃木県小俣町上ノ田遺跡踏査 5月25日 晴 桐生岡新公園遺跡踏査 7月15日 晴 栃木県小俣町上ノ田遺跡再踏査 7月16日 晴 桐生岡新公園遺跡踏査 7月20日 晴 新里村板橋方面踏査 7月27日 晴 勢多《せた》郡粕川村月田鏡手塚発掘調査(群馬師範尾崎先生主査) 8月1日 晴 勢多郡粕川村月田鏡手塚調査(群馬師範尾崎先生主査) 9月5日 晴 勢多郡荒砥村八光遺跡調査 9月11日 晴 栃木県小俣町上ノ田遺跡踏査 9月18日 晴 栃木県菱村東光台調査(田戸) 9月25日 晴 新里村板橋方面踏査 9月26日 曇 同 右 12月6日 晴 桐生岡新公園、東光台、普門寺踏査 12月25日 曇時々晴 太田市烏山古墳発掘(群馬師範尾崎先生主査) 〈この間、折りを見ては赤土の崖へ出向くこと数知れなかった〉   赤土に眠る黎明期文化    まぼろしの太古の世界 〈石ころに囲まれて〉 二十四年の新春を迎えた。戦後、はやくも四度目のお正月であった。敗戦の切実な現実は庶民生活の上に依然として重苦しくのしかかり、混迷はまだつづいていたが、年の暮れにはモチ米、みそ、しょうゆ、砂糖など正月用品がわずかばかりではあったが配給され、正月の食卓をかざった。  元旦の朝はやく、 「あんちゃん、起きたかい、新年おめでとう」  隣組のおばさんの声で目がさめた。前日の大みそかは、長屋の連中はじめ何軒かの家からたのまれて、ゴボウやニンジン、サトイモなどの買い出しで忙しかった。  いつものように赤城山麓の村々を歩き、求めてきた品々をそれぞれの家に配り終わってわが家に帰ったときには、隣家のラジオから除夜の鐘が、しんみりと解説するアナウンサーの声とともに、壁越しに伝わってきていた。  ゲートルをとりながら、その日一日の働きを終えてホッとした気持ちと、一年の暮れゆく足音を聞くような鐘の音に、やる瀬ない思いをおぼえた。  へやじゅうところせましと積みあげた木箱のなかの、いくつもの遺物は、そのまま、黎明時代に生きた祖先の、一家団らんの姿となって、私をとりかこんでいるようであった。  私は、その何千年前か、いや、何万年前かの日本人の祖先の、一家団らんのなかで、つかれはてて、太古の夢をまどろみながら、眠っていたのであった。 「どうせ、なんにも仕度をしなかったんだろうと思って、モチとキンピラを少しばかり、もってきてあげたよ」  といって、おばさんはあがってきた。 「まあ、あきれたネ、お正月だちゅうのに、石ころだらけのなかで寝坊してるなんて、これじゃ食べるところもありゃしない……」  なかばあきれ顔で、せまいわが家を見まわしながら、そういうと、おばさんは、紙に包んだモチと小皿に盛ったキンピラとを置いていった。  行商もしばらくは正月休み。こんなとき、私はこれまで調べてきた縄文早期文化の遺物や遺跡の整理をしながら、赤土の崖から出る石剥片の謎を解こうと夢中だった。  採集した土器や石器のうち、土器の撚糸文・押捺文・沈線文の各グループは、南関東で最古の土器グループと同じ時期のものであることは間違いなかった。そのことははっきりしてきた。  同時に、伴出する石器のグループは、石斧、石鏃をはじめ、石錐や石皿などいろいろな型をした石器類がおもになっている。それぞれ定型があるのだった。また同時に出てきたいくつかの石剥片を一つ一つよく調べてみると、細石器の石剥片はみられなかった。  また、これらのグループが使われた時代の生活面は、黒土の最下層から赤土(関東ローム)の境界付近にあり、赤土の中心部にはないこともはっきりしていた。  このことは、赤城山麓の高縄遺跡や桐生岡新公園遺跡などの、平坦部と山地での何ヵ所かの発掘地点において確認してきた。  ところが、笠懸村稲荷山前の赤土の崖から、いままでに三十片ほど出てきた石剥片は、みんな一様に縦長の剥片ばかりで、なかには細石器様の剥片も何片か見られるのであった。ずいぶん注意して見るが、まだ定型としての石器は一つも見つからない。そして、その地点から、土器片は一つも発見できないのだった。しかもこの石剥片が出てくる地層は一様に赤土層であった。 〈赤土のなかには石器文化が……〉 すべての点で、最古の土器グループとは、様子がまったくちがっているのであり、私の疑問は、それなりにだいぶ整理されてはきたものの、謎は深まる一方であった。  赤城山麓には、赤土のなかに、土器を知らず石剥片だけを使っていた祖先の生活の跡が残されている!  それは、最古の土器グループの生活面からさらにもっと深いところにある。……とすると、この石器文化は、いったい日本のいずれの時代、いずれの文化に属するものなのだろうか?  私は、ひとり、とてつもない考えが浮かんできて、われながら驚くばかりだった。まったく思いがけない、まぼろしの太古の世界にさまよいこんでいくようであった。  赤土はすべて、関東ローム層とみてさしつかえない。その関東ロームは、はるか遠古の時代に活動した火山の火山灰が堆積《たいせき》してなった地層であるといわれている。  そのような時期こそ、黎明期の時代であり、その黎明時代に生活した祖先の人々の団らんはどんなだったろう。どこをどう歩いていたのだろう。何をどうして食べて生きたのだろう。どんな敵とどう戦って、子孫を育てていったのだろうか?  私のなかで、赤土のなかに眠る黎明期文化によせる夢は、もはやはちきれんばかりな幻想となって、広漠たる天地の間にふくらんでいくばかりであった。  それにしても、笠懸村の稲荷山前の赤土の崖付近は、丘陵地とはいえ、そのなかでも比較的低いところであった。あの三十片の石剥片は、なんらかの事情があって、後に、赤土のなかに潜りこんだのではないかとも考えられるし、だからといって、石剥片だけしか出ないということもおかしいのであった。かならず何かもっとはっきりした定型の石器が出てきてもよさそうなものだ、もっとよく確かめてみなくてはならない、と思うのだった。  同時に、縄文文化早期の遺跡を、もっと広い範囲に追究して、整理し、はっきりさせていく必要がある。この点にしぼれるだけしぼって、集中調査をやっていこう。よし、今年《ことし》は、ただこの赤土の崖の謎を解くことに、すべてをかけよう、……私の頭のなかはこのことでいっぱいだった。  厳寒から早春にかけて、桐生市周辺の山すその台地や、赤城山麓の丘陵地帯を歩きつづけ、またいくつかの新しい縄文文化早期遺跡があることを知った。新里村の不二山山麓を通る村道の傍や、同じく新里村の新川という部落の道ばたに露頭する赤土の崖、また、伊勢崎と桐生を結ぶ県道の傍の権現《ごんげん》山や笠懸村|阿佐美《あざみ》北山の工事による採土現場などからも、意外に、深い赤土のなかから、変わった石剥片や石器が出ていることを知った。  これらはみんな独立したものではありながら、またそれぞれ関連性をもっているに相違ないものと思われ、一にかかって、笠懸村の赤土の崖を掘ることができさえすれば、はっきりするのに……と歯がゆいばかりであった。  ところで、その赤土の崖を掘るとなると、なにせ村道切り通しの断面であり、断面の上は両側ともに山林なのである。赤土の地層を保存するように注意しても、山林がくずれおちてしまうだろう。現にその赤土層中の粘土層は、建築の際の壁塗りのために使うのだろうか、ポケット状に掘り取られ、上のほうの山林の一部がくずれ落ちているのだった。  もっとも、そのだれのしわざかもしれない採土のおかげで、私は、そこを訪れるたびに何個かの石剥片をかならず採集することができるのだった。ひょっとしたら、へたな発掘より確実な観察と収集ができたともいえるかもしれない。 〈ある会社社長の誘い〉 三月下旬のある日、突然、川田さんというある会社の社長さんが私を訪ねてきた。これまでに二、三回私の家へきてみたが、いつも不在だったとのことだった。 「きみのことは話に聞いていたが、こりゃすごいもんだ」  と、室内を見まわして感心している。私はいったいどこで聞いて、何の用できたのかといぶかっていると、 「しかし、きみ、考古学もいいけれど、少しは自分の生活や将来のことも考えたほうがいいのではないか。こういうことをやるには、生活の安定が第一で、その安定がついた上でやったらいいんじゃないか」  といいだした。私はこの社長という人の口から「考古学」ということばがでたとき、奇異な感じをうけた。いかにもそのとおり、遺物収集、遺跡歩きはやってきたけれど、自分はどこまで「考古学」を勉強しようとしているのだろうか。結局はこのまま、自分自身の抱いた夢を追いかけて、その夢のなかの不思議なものを見つめて、頭をひねり、ああでもないこうでもないと迷いつづけるだけのことではないだろうか。「考古学」の研究などとは私には身分不相応なこととしか思えないのだった。  その上、私自身の生活についての不意な客の親切な忠告は、私の虚をつくありがたいことばに相違なかった。私自身、決して考えないわけではなかった。だが、独身の私にとって生活の安定を求めるより先に、心の夢としての祖先の生活の遺跡の追究、一家団らんへの思慕のほうが、私の生きる歩みの支えであることは、正直な話なのだった。  生活の安定そして将来の設計とは、一定の収入を得るための仕事をし、財を貯え残すことをいうのであろう。このことは、人間社会に生きるために絶対に必要なことである。しかし、そのために人間は現実に押し流されて、自己本位なみにくい闘争をすることになり、ひいては平和を乱すような逆な結果を生じてしまうのではないか。……私にはこの疑問がつきまとってはなれなかった。  私の生活を心配してくれる人はそれまでにも何人かいた。その何人かがはたしてどこまで心配してくれただろうか。山曽野さんにしても山洞さんにしても、そうだったではないか……。私には、反撥だけが残っているのであった。ましてや、祖先の団らんのあとである遺跡地を、一人の人間の私利私欲の道具にするようなことがあるなら、相手がどんな人物だろうと、私には耐えがたい、痛憤事であった。桐生で接した何人かの人は残念ではあるがそういう相手なのであった。そう考えるよりしかたのない事実がつぎつぎにあらわれてきていた。  じつのところ、突然私を訪ねてきた会社の社長という川田さんのことばにも、またかとなま返事をしていたのだった。しかし、だんだん話を聞いているうちに、この人には真意があると思えてきた。 「まあ、きみ、よく考えて、一度ゆっくり日曜にでも自宅《うち》へきて、石器時代の話など聞かせてくださいよ」  といって、川田さんは一枚の名刺をおいて帰っていった。  数日して私はなんとはなしに社長さんの家を訪ねてみた。当たって砕けろといった気持ちであった。  そして、問われるがままに自分の過去のことを話した。この川田さんが、山洞や山曽野たちのグループを後援している有志のことをよく知っているのも意外だった。桐生も広いとはいえ、特殊な同好者の集まりに力を貸そうという人は少ない。  その一人が、行商人のやっていることなどと一部ではいわれている私を取り立ててやろうというのだから、不思議なくらいだった。 「なんといっても生活できるだけの収入が第一、行商などしていたのではしかたがない。よかったらうちの会社の製品を販売してくれないか。もしよかったら、固定収入として三千円、あとは品物の売り上げによって歩合にするがどうだろう」  という話で、遺跡歩きのときは自由に休んでよいとの条件付きであった。  三千円あれば東京へも行けるし、本も買える。赤土の崖の謎を解くことをもう一歩押しすすめるには、より多くの本を読まなければならないし、上京して専門の先生に会って話を聞かなければならない。私はお世話になることに心を決めた。 〈小谷戸発掘の失敗〉 四月に入って、桐生市でははじめて、おそらく全国にさきがけて、成人式をふくめての文化祭が開催されることになった。  川田さんもその役員であり、社会教育としての行事の提案者でもあった。そこでさっそく私に、郷土資料展(考古展)をやろうといってきた。私は引き受けた。会場は桐生市の中心、本町通りの藤原ビルとよばれる二階の大広間があてられた。  その展覧会で、私は古代人の生活の復元ということに力を入れようと計画を練った。当時の住居の建物、当時使用した斧、いろり、その他を実物に近い形で仕上げた。群馬師範の尾崎先生の指導と助力をいただいて、桐生市では初の考古展が開かれたのだった。  遺跡ブームの熱があがっている地域での考古展だったので、これはじつに盛会だった。三日間の会期を無事に終えて後かたづけをしていると、群馬師範の学生の一人が意外な話をもちこんできた。それは、桐生市の北東、梅田峡谷の上のほうの小谷戸《こがいと》という台地から、押捺文と撚糸文の相当大きな破片を採集してきたというのだった。そして出たところへ案内するから行ってほしいというのだった。  私はすぐ出かけた。現地はいままで経験したことのない山のなかの小さな台地で、その先端が|そそり《ヽヽヽ》立っている断面であった。そして驚いたことには土器の出るところがおよそ三メートルほどきちんと落ちこみ、これはまったく竪穴住居の断面と見られたのだった。そして床面と思われるところから、撚糸文土器の相当大きな破片が出てきた。縄文早期の竪穴住居跡? ——これはいままでまったく未知のものなのだった。  川田さんにこのことを報告すると、展覧会が上出来だったので気をよくしてか、発掘を全面的に援助してくれることになった。勢いこんで小谷戸台地の発掘準備に取りかかった。写真撮影は国本さんという旅館の主人が引き受けてくれた。  しかし、いざ実施してみると、発掘は予定どおりにはいかなかった。延々十数日の山住まいがつづき、その上、やっと掘りあげてみたら、住居跡に間違いないと思ったのは、炭を焼いた窯跡だったのだ。  この発掘はさんざんだった。そしてこの失敗が山洞・山曽野グループから笑いのタネにされたのはいうまでもなかった。  だが、失敗は失敗として、私は重要な事実をこの遺跡から学びとることができた。それは、このようなけわしい山峡にも、関東ローム中には土器グループがないという確信であった。これによっても、笠懸村の赤土の崖から出る石剥片は完全に赤土のなかのものという決め手が得られる。そして土器はともなわない。もしあるとすれば、その土器は土器自体が未知のものである。  ここまで縄文文化早期の遺跡を追究してくると、赤土の崖の謎を解くのはもう一息に思える。あとは、そこからどんな定形石器が出てくるか、という一事にかかっているように思えてならない。  無理押しした小谷戸の発掘失敗の結果、その費用をだしてもらった手前、しばらく私は会社の品物の販売に精をださねばならなくなった。    定形石器の発見 〈黒曜石の槍先形石器発見〉 うっとうしかった梅雨期もいつかすぎて、照りつける太陽はもうすっかり初夏になっていた。  私はほぼ三ヵ月ぶりに笠懸村の赤土の崖へ向かってペダルをふんでいた。前橋県道(国道五〇号線)にそって、両毛線の岩宿駅前から西へ進むと間もなく右手に、岩石が切り立ったように露頭する丘陵の突端があった。ここは金比羅《こんぴら》山とよばれていた。そのすそを通り、少し行って右へ曲がって丘陵のすそをまわるようにして進むと、ケヤキの大木が繁る森があった。  ここはかつて石灰を製産した工場のあった場所でもあった。やがて目の前に静かな沼が見えてきた。この沼を沢田沼とよんでいた。  ケヤキの繁みのなかから沼越しに遠く黒檜《くろび》山を中心とした赤城山の一部が、稲荷山と鹿田山の間から、まるで額ぶちの絵のように見えていた。いつきてもここは閑静なところであった。沼の岸辺では三、四人の近くの子どもたちが水遊びに興じていた。その無邪気な声が水の波紋とともに大自然のなかへ吸いこまれていく。  ひと休みしながら水面を見おろしていると、むかし鎌倉の滑川で遊んだころのことが思いだされた。私はまた山すその小道を自転車を走らせて、稲荷山前の村道に出た。  そこでいつものように、崖の断面を一方の側から、詳細に観察しながら歩いた。  そこにはまた小さなブロック状のくずれたところが見られ、一メートル五十センチほどの赤土層と、その下に黒褐色の帯状を呈した粘土層が露頭していた。  その黒褐色の粘土層のなかに、人の頭ほどの大きさの河原石が顔をのぞかせているのが見つかった。「はてな?」と考えながら、小枝でまわりを注意深く掘り削ってみた。石をやっとのことでとりだしてみると、それは三十センチほどの卵型をした河原石だった。  私は粘土層をなおよく念を入れて見たが何も見当たらない。  こんな地層の底に河原石(礫《れき》)が入っている。ふつうなら、こんな粘土層に石が入っているはずはなかった。それもただの河原石なので、不思議に思いながらなお気をつけて見ていくと、四センチほどの長さの角岩をひきさいたような石剥片が出てきた。これは確かに人工品であった。赤土層のなかからだけでなく、その下の粘土層のなかからも、石剥片が出ることがわかったのだ。  そこから離れてもう一方の崖面を注意深く目を光らせながら見て歩いた。山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前に見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。 「ついに見つけた! 定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」  私は、その石を手にしておどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔をくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこへもぐりこんだものでないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。  それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。  もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。 〈感激の夜〉 この二年余り、私はただ一つ、この石器を見つけだすために、そして赤土の崖の謎を解くいとぐちをつかむために、探し求め、歩きつづけてきたのだった。しかも、長いようでもあり短いようでもある、私の手探りの道であった。  私は泥んこになった手と、その貴重きわまりない石器を洗うために沢田の沼辺へ引きかえした。  子どもたちはまだ遊んでいた。私が沼辺で石を洗っていると、子どもの一人が近寄ってきた。 「おにいちゃん、石なんか洗ってどうするの」  と話しかけてきた。 「この石はねえ、大むかしの人が使ってた石なんだよ」  子どもは黙って、私の石を洗うしぐさを見守っていた。槍先形の石器には赤土が付着していたが、洗い落とすと、掌の上で輝くようにつや光りがして美しくなった。 「わあ、きれいな石! ガラスみたいだ、ぼくもほしいな」  と子どもは身を乗りだして、沼辺にしゃがんでいる私ににじりよってきた。  その石器は、長さ七センチ、幅三センチほどの長菱形《ながひしがた》で、周縁全体がきれいに加工され、一端は鋭くとがり、一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。  空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。  このときの感激こそ、私の生涯忘れることのできないものであった。思えば、一片の黒曜石の細石剥片に気をとられてから三年余の赤土の崖がよいの末に、ついにこの感激にめぐりあえたのであった。  子どもたちはいつのまにか私をとりかこんで、私とその石器とを目をかがやかせて見守っていた。みんなでかわるがわる石器を手にし、西にかたむいた太陽の光にすかして見ながら、感歎の声をあげるのだった。  帰り道のペダルをふむ足は軽かった。私は一刻も早くわが家に帰って、これまで採集してきた石剥片と並べくらべてみたかった。それだけを思って心がはずんだ。  その夜おそくまで、家のなかいっぱいに石剥片をならべて、詳細に比較し検討しつづけた。その日の大成果である槍先形の石器が、夜の電灯の光にも、ひときわ、かがやきを増すばかりだった。  赤城山麓に、火山灰の関東ロームの堆積時代に、すでに人類の祖先が住んでいた。しかし、その祖先はまだ土器を知らない、石器だけで生きていた!  しかも、黒曜石という、いまで考えるとダイヤモンドにも匹敵するであろう石を手に入れていた。そしてそれを生活の利器として使用していた!  私の抱きつづけた黎明期への夢が、その一片の槍先形石器から、何千年、何万年の遠古の天地へさかのぼって、くりひろげられていくのだった。  さあ、赤土と石剥片の謎はもう解けたも同然だ。だが、これからこそたいへんなことなのだ。まずこのような石器文化がほかにもあるのだろうか。それに答えるには、私の知識経験はあまりにも薄弱であった。  なんとかしてこのことを専門の先生に聞いてみたい。聞かなければならない。しかし、うかつなことをいおうものなら、また一笑に付されるか、物笑いのタネになるかもわからない。私はこの私だけの大きな夢、大切な夢をだれにもこわされたくなかった。しばらくは、じっと、私の胸のうち深くしまっておきたい、と願った。   新しい学問の出発へ    �重大な発見�だ! 〈芹沢長介先生に話す〉 そのときは意外に早くやってきた。  川田さんの東京の家が吉祥寺《きちじようじ》にあり、そこを支店とすることになったので、外交販売に行ってほしいむねの話がふってわいた。どうも私を桐生においておくと遺跡歩きだけで仕事に身を入れないので、東京へやれば少しは働くだろうという意図からと思われた。そして小谷戸の発掘に金もかかっているので、少しは働いてもらわねばということでもあった。  私は承知した。桐生から東武線で浅草へ出て、浅草から地下鉄で渋谷へ、渋谷から井《い》の頭《かしら》線で吉祥寺へのコースは、それからしばらく私の東京通いのコースとなった。  吉祥寺の店を中心に自転車で外交販売をするのだった。この商売には、浅草での小僧時代の経験が大いに役立った。さすがに、桐生周辺での外交とはちがって、競争相手も多く、力が入った。お得意を一軒でも多く獲得するとうれしかった。苦労のしがいがあると思った。私が持ち歩く品は脱脂綿であった。当時�衛生綿�とよばれ、もちろん統制品であったが、薬局や日用雑貨店などがお得意さんとしてふえていくのが励みにもなったのである。  このようにして上京し外交に歩いている途中で、私はたまたま世田谷|赤堤《あかづつみ》町の清水潤三先生や江坂輝弥先生のお宅を、つい近くまで行って知り、勇を鼓してお訪ねしたのだった。  清水先生はかつて日本の旧石器文化研究の基礎づくりを提唱された大山|柏《かしわ》先生の数少ない門下生で、ぜひお会いしたかったが、登呂へ行ってご不在のためお会いできなかったのは残念だった。  ちょうど私が江坂先生のお宅をお訪ねしたとき、芹沢長介先生が先客できておられたのも、運がよかったといえるだろう。話は大いにはずみ、赤城山麓の縄文文化早期遺跡のことにおよび、じつにたのしいひとときをすごしたのだった。  このとき、私は、赤土の崖での事実について、ありのままを話してお教えをいただこうと、よっぽど思った。のどもとまで出かかっていたのにそれができなかった。  というのはわけがあった。それは、当時江坂先生はもう桐生へは何度もいらっしゃっていて、とくにいまは私とはライバルの関係となってしまっている山洞・山曽野グループと深い交渉をもっていることを、知っていたからであった。もし軽々にお話しして、桐生のグループに知れでもしたら、元も子もなくなってしまう……ただそれだけを心配してのことであった。  芹沢先生はまだ桐生へは来られていなかった。桐生の連中とも当然交渉がないことを知っていたので、私は安心感を抱いていた。江坂先生には相すまないと思いながら、芹沢先生と二人だけになったとき、ちらとだけ、赤土の崖から出る石剥片のことを洩らしたのだった。岡新公園からでる石鏃の話などもした。  だが、さして深く話もせずにお別れしたのだったが、帰宅して間もなく、芹沢先生から一通のはがきをいただいた。 [#この行1字下げ] 先日は失礼しました。江坂君の家でうかがった半磨製石鏃の資料、ぜひ拝見いたしたいと思っております。できましたら見せていただきたいと思います。また、中石器の疑いある石器も差支えなかったら拝見させてください。取急ぎ右お願いまで  匆々  私はすぐお見せしてくわしい話を聞きたいと思った。 〈重要な発見との断定〉 芹沢先生のお宅は青山にあって、私の東京通いの地下鉄の途中に駅があった。私は数日して先生のお宅を訪ねた。  このときはじめて、私は詳細に、赤土の崖での事実をお話しし、お教えいただきたいむねを述べ、何点かの資料をお見せしたのだった。  そのなかには、黒曜石の槍先形の石器と、細石器様の石剥片も持参していた。  小さな卓の上に、いちいち説明しながら並べられていく資料を、先生は終始、じっと聞き入りながら、見つめ、手にとり、そしてさらに、この三年余の経過を何度も聞きただされた。やがて先生はやおら立ちあがって奥に入ると、一冊の部厚い本を手にしてこられた。  青っぽい表紙に『満蒙学術調査報告書』と印刷されてあった。先生はページをめくって八幡一郎先生の報告に載っている細石器の写真をじっと見つめ、私の持参した石器を手にとって見くらべながら、 「これは、すごい、うりふたつだ!」  と感歎の声をあげた。そしてなお何度も見くらべているのだった。このとき、先生は、きれいで完全な槍先形の石器より、細石器様の石剥片のほうに注意をひかれるようであった。 「ほかにどこかでこのような石剥片が赤土のなかから出るところがあるでしょうか」  先生は真剣な顔つきであった。 「ないでしょうね。赤土が確かに関東ロームだとすると、これはたいへんなことになるのですよ。赤土のなかに、まだ石器文化などは発見されていませんからね」 「しかし、先生、この赤土の崖では確かにこのような石器が赤土のなかから出てくるのです。それも土器をいくらさがしてもないのです。赤城山麓や桐生付近でも、赤土のなかには土器が出てくるところはないのです」  私も真剣であった。 「もし関東ロームのなかだとしたら、そういうものが入っていること自体がおかしい。稲荷台式の土器なんかにしても、関東ロームに食いこんではいたけれど、そのなかから出たのではなかった。これは私も発掘に参加したのでよく知っています。南関東でも、早期の土器はみんな黒土層の最下面で止まってしまっています」 「とすると、この赤土の崖の石剥片はどういうことになるのですか」 「私がこれを重要であると断定する理由は二つあるんです。それはまず第一に、赤土のなかから出ようが出まいが、細石器様のこのグループが北関東にあるという事実です」 「もう一つの理由は?」 「もう一つは、これが、おそらく関東ローム層とみていいだろう、その赤土のなかに、土器をともなわずにあるということ。この二つの事実がたいへん重要だと思うのです」  そして先生はしばらくじっと考えこんだ後、 「もしかすると私たちはたいへんなことを見落としてきているのではないか、とも考えますね。しかし、こんどのあなたの発見は、資料としては少ない感じがするが、これだけそろっていれば絶対確かでしょう。そしておそらくはじめてではないでしょうか」  先生と夢中で話していると、ときどき、小柄な、きりりとした和服姿の、先生のお母さんが飲み物を運んできてくださったりした。 「このたいへんな事実を、君が大切にしていることは私にはよくわかります。その大切な夢はこわしませんから、一度現地を案内してくれませんか。またほかにお持ちの資料もぜひ見せてくれませんか」 「はい、ぜひきてください。縄文早期の遺物についてもお教えいただきたいものがたくさんありますから」  話はいつまでも尽きなかった。私は帰りの電車が間に合わなくなるので、再会を約して芹沢先生のお宅を辞した。  東武線の終電車にやっと間に合った。だんだんスピードをあげる車内で、芹沢先生との話がつぎつぎに思い出された。そして何か胸につかえていたものが、すっきりと払いのけられた思いであった。  それから私はできるだけ時間をつくり、足しげく赤土の崖に出かけた。そして、芹沢先生から受けた注意事項の確認をし、その後の状況をそのつど先生にお知らせした。 〈杉原荘介先生に会う〉 九月の声を聞いてもまだ暑い日がつづいていた。そのころ、芹沢先生からはがきが舞いこんできた。  五日ごろに、登呂遺跡の発掘から杉原先生が帰ってこられるので、よかったら上京してほしい。明大の研究室に案内しましょう、というお誘いであった。  杉原荘介先生といえば、登呂遺跡発掘のニュースにはかならずといっていいくらい、談話などを発表される弥生文化研究の権威者なのだった。  私のようなものが、その大先生にお目にかかれる……しかも史上まれに見る大々的な発掘といわれる登呂遺跡のなまの話が聞ける……と思うと、身の引き緊まる気持ちがするのだった。  ——杉原先生はどんな風貌をしている方だろう?  などと、九月五日、私は胸をふくらませて上京した。さっそく芹沢先生に連絡をとると、杉原先生は帰っておられるが、登呂発掘の後整理の会議のため、八日に研究室で会いましょうとのことだった。  私は八日までの三日間が待ち遠しく、一日千秋の思いだった。  八日、芹沢先生に連れられて、はじめて明大の考古学研究室に出かけた。芹沢先生はすぐ私を杉原先生に紹介してくださった。  杉原先生は、真夏の間、登呂発掘で活躍されたそのままの日焼けした顔、細面の顔の口もとを話すたびにきりりと一文字にしめる印象的な表情で応対してくださる。が、私のほうは、お目にかかれたものの、緊張のあまり、話すことばも出ず、何をお聞きしているのかもわからないくらいあがってしまっていた。せっかくの登呂の話なのに、何をどう聞いてよいやらわからないのだった。  しばらくして先生は封筒を持ってきて、なかから石剥片を手にとりだした。見ると、芹沢先生に預けておいた赤土の崖の貴重な資料であった。  私はハッとした。杉原先生からは、登呂遺跡や日本の弥生式文化の話を聞くことができるとのみひとり決めしていたので、赤土の崖の遺物については忘れていたくらいだった。  先生はその石剥片の一つ一つをながめながら、 「これはちょっと人工品かどうか疑問です。これは黒曜石という石で、打瘤とバルブ面があるので、あきらかに人工品でしょう」  といって、一つ一つ説明される。私はまったく意外きわまることばなので、なおのことコチコチになってしまった。石剥片が人工品であるか、どうか? そのような疑問さえ、私は一度も抱いたことがなかった。そのような疑問を抱く余地が私にはまったくなかったといったほうが当たっているだろう。  私のそれまでの追究で得た考えでは、まず第一に黒曜石は群馬県には産しないし、もちろん赤城山麓の河原には求められないということだった。そしてつぎには、赤土のなかにはふつう、岩石はまったくといってよいほど入ってないこと、それは山麓の縄文文化早期の遺跡のいくつかを掘って、その下の赤土を調べてみての上で、確認したことであった。  だから、はじめから、私は稲荷山前の赤土の崖から出る石剥片は人工の物——遺物——として考えてきたのであった。  芹沢先生は傍でただ黙然《もくねん》と、杉原先生の説明に聞き入っておられる。私も黙ってうかがうしかなかった。一通り石剥片の説明が終わってから、杉原先生はいわれた。 「ともかく現地を見たいと思います。明日と明後日は会議があるので、その会議が終わってから現地へ行ってみたいがどうでしょう」  私は明日一日仕事をして、明後日午後帰るむね話すと、 「その帰りにいっしょに行くようにしたら……」  ということになり、十日午後、東武線の浅草駅で落ち合うことを約して、明大を辞したのだった。  その夜、そしてそのつぎの夜も、私は夜ふけまで眠れなかった。杉原先生のような大先生や芹沢先生、岡本勇先生たちの面々が、疑問を解いてくださるべく、桐生へ出向いてこられるという——これはたいへんなことになってしまった、とひとり思いめぐらしつづけたのだった。  すでに桐生には、山洞・山曽野グループとの結びつきで、酒詰先生や縄文文化研究の権威山内先生らの東大グループがきており、一方では、吉田、江坂、甲野先生という、そうそうたる縄文文化研究の第一線級の学者が、それぞれ遺跡究明を求めてきているのだった。それらの先生方とはぜんぜん肌合いのちがう杉原先生たちが、いよいよ桐生へ乗りこんでくる……すごいことになった、えらいことになった。私はそう思って興奮のしっぱなしだったのだ。    ついに発掘成功 〈岩宿発掘へ〉 十日午後二時すぎ、東武線浅草駅に、杉原先生、芹沢先生、岡本先生と私の四人が落ち合って、一路桐生へ向かう車中の人となった。  桐生へ着いてからが私にはたいへんだった。まず先生方をどこの宿にお泊めするかということからはじまった。さっそく川田社長さんに相談し、ようやくのことで、小谷戸遺跡発掘のとき写真をとってもらった国本さんの経営する越前屋旅館にご案内してくつろいでいただいた。ひとまずホッとしながらも、私は、山洞・山曽野グループに知れたらどんな邪魔だてをされるかわからないと、それが心配になった。現地が荒らされることが特に心配だった。  越前屋で明日の打ち合わせをすませ、九時すぎにお別れして、私はその足で川田さん宅へ走った。まず杉原先生一行の来桐の経過を話し、そのため商売を休ませてもらいたいむねと、なにぶんの応援を懇願して、わが家に帰ったのは十二時すぎであった。  それから、前橋の尾崎先生に、杉原先生一行来桐の経過を手紙に書きつづった。  時間はものすごい勢いで過ぎ去った。夜はあっけなくあけて、九月十一日、夜明けとともに雲厚く垂れ、いまにも降りだしそうな天候で、はだざむい。  午前五時、私ははね起きていた。おちおち眠ってなぞいられなかった。夜のうちに書いた手紙を、桐生から前橋に通勤している友人の一人に尾崎先生にとどけてもらうよう依頼して、その足で、これまでもよき手助けをしてくれていた山越君に手伝いを頼み、なお友人一名の応援連絡も頼んで、越前屋へ急行した。  午前八時すぎ、杉原先生はじめ一行六名は、両毛線桐生駅から高崎行列車に乗って岩宿に向かった。  岩宿下車、駅前を通る桐生前橋街道を西に向かうと、間もなく金比羅山の岩はだが見えてきた。その丘陵のすそをまわり、山寺山のふもとを通って、稲荷山前の目ざす赤土の崖へ一行を案内したのだった。  現地に着くやいなや、いまさら私が説明するまでもなく、さあきたとばかり、先生がたはたちまち赤土の崖に吸い寄せられた。目をかがやかせて食い入るように見て歩く。しかしなかなか遺物らしいものは出てこない。めいめい持参の小形ショベルで崖をていねいに削りながら、なおよく観察をつづけていった。  杉原先生は、私の説明を聞きながら、愛用だという小型スコップで、北側の赤土断面を少しずつ削るようにしながら、スコップの先を崖面の赤土層と褐色層に立てていく。  そこは、過日私が、褐色層のなかに人頭大の河原石があり、それを掘り出し、小さな石剥片を見つけることができた場所だった。  一同はしだいにただ無言となった。めいめいが思い思いに赤土を削りながら赤土の崖面を観察しつづけた。やがて一同は杉原先生に従って並び、スコップとショベルで赤土とその下の褐色層を掘りはじめる。何もまだ出てこない。地層が硬いのでなかなか思うようにいかないのだった。  そのうちに、一つ二つと石剥片が出てきた。一同は勢いこんで掘り進む。黄色や褐色の真新しい土の地はだがあらわれ、掘りくずされた土は道端へころがっていく。  昼近くになってようやく何片かの石剥片があらわれた。一片あらわれるごとにみんなが目をかがやかせてそれをのぞきこんだ。  天候はますます雲厚く、いまにも降りだしそうだ。けれど、赤土の崖付近はじつに静かだ。澄みきった空気、草の繁みに鳴く虫の声……かつてここの道は、買い出しに行きかう人々が大勢通っていたのが、いまはほとんど通らない。ときおり、近くの農家の人が通りかかり、崖を掘る私たちをいぶかしげにながめていく。  杉原先生は石剥片が出てきたのに力を得てか、 「この分ならきっと石器が出る。こんどは完全な石器を見つけろよ」  と声をはりあげて激励しながら掘りつづけた。私は、いま、関東ロームの堆積時代に住んだ祖先の生活の場が、専門の先生たちの目の前に、みずからの手で一つまた一つと発見される石剥片によって、実証されていくことにただ興奮するばかりだった。  午後もだいぶ時間がすぎ、掘りかえした土の山が崖のふちにたまってきたころには、石剥片の数もふえ、いっそう活気づいてきた。四時少しすぎて小雨がぱらついてきたので、一同が最後の追い込みと意気込んでいるときであった。  突然、杉原先生が、 「出たぞ、出たぞっ」  と大声で叫んだ。先生は小型スコップを捨て、削られた崖面に素手をひろげている。みんないっせいに先生のところへ走り寄った。先生が指さす褐色層の断面に、みずみずしい青色の石のはだが覗いている。それも比較的大きいようである。みんなは息をのんだ。先生は指で少しずつまわりの粘土状の土をていねいに払いのける。だんだんその青色の石は大きくあらわれ、卵型の形を見せてきた。やがてコロッと先生の手で掘り出された。先生が指で泥を払いのけると、なんと、完全なりっぱな石器であった。  みんな、かたずをのむ。先生は無言でしばらくなでまわしていた。その手はふるえているようだった。  後日、何かの本に、このとき杉原先生は涙を流したと書かれているのを読んだ。が、先生が涙を流したかどうか、私にはわからなかった。このときの私は、興奮はしていたが、それほど感極まるというほどではなかった。せっかく東京からこられた先生方が、むだでなかったことが何よりうれしかった。私が感激をもったのは、すでに過日、ここからあのきれいな槍先形の石器を見つけたときに尽きていたのだった。もし、杉原先生が涙を流されたのだったら、それは一人の考古学者としての純粋な学究人の涙であっただろう。  私のそれは、祖先の一家団らんの場で使われたにちがいない石器を手にして、その肌に隠された夫婦、親子などの人間関係への郷愁と思慕によるものだった。  やがて杉原先生の手から、みんながかわるがわる手にし、そのずっしりと重い石器のはだざわりをたしかめるのだった。  あたりはもう夕やみが迫ってきた。私たちはこれをしおに意気揚々と宿に帰ったのであった。  宿に帰ってからも、またみんなで採集した石器や石剥片について、いつまでもながめ入っては語りつづけた。 「私はまちがっていなかった、私はついにさがしあてた。この赤土のなかに、私たちの祖先の残していった体臭を!」  私は、この新しい学問の出発点をみつけ出すことに貢献できた喜びを、心のなかで一人かみしめるのだった。    たどり着いた岩宿の丘 〈大きな反響〉 翌十二日、杉原先生を地元の関係者に紹介するためまず前橋を訪れた。群馬師範の尾崎先生はたいへん喜んでくださった。ついで県庁を訪問し、桐生へ引き返して地元の村長さんや地主さんに会い、それぞれ、発掘目的の説明や本発掘の下交渉をしてまわった。  十三日は終日、赤土の崖で調査をつづけた。芹沢先生は遺跡地の写真を撮るのに忙しかった。発掘の方は、石剥片が多数出たが、初日に出たような完全な石器は出てこなかった。  三日間にわたる杉原先生、芹沢先生、岡本先生と私たちとの協同調査は終わった。  六名の十二の目と手が、かたい信念と胸いっぱいの期待とで、ついに探しあてた一つの石が、思いもかけない大きな反響を投じることになり、新聞の報道はいうまでもなく、学界にも大きな波紋をよんだのであった。  私が私なりに抱きつづけてきた疑問——赤土の崖の謎——は、日本文化の起源をさぐり求めてやまなかった学究の先生方の疑問でもあったのだった。それはまた、考古学上の常識への疑問でもあったのである。  私の�岩宿への道�は、孤独な少年の夢からはじまって、長い長い、ひたむきな祖先の団らんの姿をえがいての、あこがれへの旅であった。  それがいろいろな人に会い、また別れ、まためぐりあううちに、形を変え中身を変えながら、しだいに考古学というたいへんな世界へまよいこんでしまったのだった。 〈常識を破って〉 それまでの考え方では、ふつう、関東地方の各地で、遺跡の発掘や調査が実施されても、まず黒土層内の遺物包含層を竹べらなどで丹念に掘り進めてゆき、その下の関東ローム層の赤土が出てくると、もうそこで、地盤が出たとか地山《じやま》だとかいって、発掘をやめてしまっていた。それが考古学の上での常識であった。  関東地方に関東ローム層が堆積した上部ロームの時代は、一万年前から三、四万年前といわれる。そのころに人類がいたかどうかを知るてがかりはまったくといっていいくらい、何もなかった。地質学者たちは、そのころは、火山活動が活発に起こり、毎日毎日地上に火山灰が降りつもり、この地方に、人類はいうまでもなく動物も住むことができない状態であったにちがいないと考えていた。東京地方などで厚さ十メートルを越す関東ローム層は、赤土とよばれ、日本の第四紀洪積世の長い間の謎を秘めた地層であった。  その厚い層のなかに何万年か眠りつづけ、残されてきた祖先の体臭——そして日本における始原文化研究のいとぐちが、笠懸村の丘陵地帯の赤土のなかから発見された石器時代文化によって、ほぐれはじめたのだった。  それは、夢を求める執念とあくなき追究と、学究グループの決断によってもたらされた。 〈「岩宿遺跡」〉 赤土の崖——と私がよんだそこは、たちまち「岩宿の崖」とよばれ、「岩宿遺跡」となり、「岩宿文化」となった。十月からは大々的な発掘調査が実施された。各新聞は日本に一万年以前、または十万年前にも人間がいたことが実証されたと報道した。  私は、あるときは奇人にされ、あるときはインチキだ、売名的サギ行為だと非難の声があがるなかにまきこまれながら、そのことが学問的になればなるほど、大きくなってくることがたまらなくさびしかった。  学問とは二次的な立場から出発した私に、執念がもえたとすれば、それは孤独な心と赤土の謎への追究が、ともし火となってもえたというほかにないだろう。  しかしまた、岩宿の丘、赤土の崖は、静寂に戻っている。その大自然の静寂をよそに、そこから発見された文化、そしてその調査にたいしては、学界も世間も騒然となっていった。商品にしてみればパテントあらそいということであったろうか。  事実、私の二十四年までの赤土の崖への追究と執念は、私の少年時代の孤独な夢の延長であり、その不断の燃焼にほかならなかった。そしてその夢が、より大きくふくらみ、なおもえひろがることと思っていた。それが現実ではみごと無残にも打ち消されてしまったのだった。私はさびしかった。そしてしだいに義憤さえも感じてきた。  思えば——一つの誕生——がそこにあった。いわば、ある小さな未熟児が思いもよらぬ大きな反響のなかで、泣き叫んでいた。すばらしい産声《うぶごえ》であるはずだったのに。そしてその未熟児の誕生に立ち会ってくださった杉原、芹沢両先生は、よくこの子を育てるために頑張ってくださった。  ひよわなその子が育つ過程で、産みの親は、妙なことをいわれたり、ばかにされたり、いじめられたりした。赤土の崖へきては、その親はいくたびか人知れず涙した。厳寒の赤城おろしよりも冷たい風に、まっこうからぶちあたっていたのだった。  鎌倉の家を後にしてから十四年、いうなれば十四年の私の歩みが、岩宿の切り通しにたどり着いたのであった。 「岩宿」の発見——日本人の祖先の生活に思いを馳せ、孤独のなかから到達した岩宿こそ、私という一人の人間に刻まれた二十三番目の年輪であった。  その後現在に至るまで、二十数年の年輪を重ねているが、「岩宿」は、青春の日の輝かしい思い出であり、また私の人生の記念碑でもある。 [#改ページ]   あとがきに代えて 〈岩宿文化誕生〉 岩宿遺跡は昭和二十四年九月十一日から十三日にかけて、三日間にわたる小発掘を予備調査とし、この成果を杉原先生は九月二十日に新聞発表する、といいおいて帰京された。  私はこの発表を心待ちにした。一日千秋の思いとは、こういうときの思いではないかとも思った。  待ちわびた二十日の夜明け、私は飛び起きて桐生駅へ走った。新聞売りのおばあさんが、売り台の用意をして朝刊を並べはじめるのももどかしく、朝日、読売、毎日とインキのにおいのする新聞をひろげて活字を追った。  あった、あった! 「旧石器時代の遺物——桐生市近郊から発掘——」  という見出しで、杉原先生があの握槌の石器を手にしている写真を掲載しているのもあれば、岩宿の位置を示す地図を載せているのもあり、それぞれに大きくあつかっているのだった。  私の胸は高鳴った。さっそく買い求めて、新聞を小脇にかかえこむようにして家へ帰っていく道で、「ついに岩宿文化は誕生したぞ」と心で叫んでいた。そして家へ帰っても、私は何度も何度も各紙の記事をあくことなく読みかえした。  このとき、私はちょうど引き揚げの長旅から帰って、背中の荷をおろしたときにも似た気持ちになっていた。  やがて十月二日から十日余りにわたって本発掘が実施された。明治大学考古学研究室を中心とする、杉原先生が隊長の岩宿遺跡発掘調査隊の本発掘、本調査で、その調査、設営などの裏方の仕事に私は走りまわった。 「旧石器時代の遺跡発見」との新聞発表によって、私が予想していた以上の大反響の波が岩宿の丘に集中してきた、といっても過言ではなかった。  明石原人の発見者で有名な直良《なおら》信夫先生も来られた。明大の後藤守一先生ほかいろいろな先生がたが岩宿にこられた。  旧石器時代の遠古の文化が赤土のなかから発見されたということに、関心と好奇と、多少の疑惑の目が向けられ、続々と多くの人々が群がり集まってきた。  私が予期していたように、山洞・山曽野グループは、前に彼らが掘った普門寺遺跡をタテにして、岩宿発見にたいする否定的言辞を流しはじめた。このことはいまもなお形こそかえながら、つづいている。  いつも静かに眠っている岩宿の丘は、にわかに騒然となった。そしてこのことは、私の長いあいだ抱きつづけ追いつづけてきた夢を、かき消してしまう結果を生んだ。  こうして三年余りもかけて追い求めてきた私の夢は、いまや学問の世界のなかへ現実の形としてその映像をうつしだしていったのであった。  騒然とした発掘調査も終わり、調査隊が引き揚げていったあと、十月中旬のある日、私はひとり遺跡に立ち、所在ない気持ちで山寺山に登り、いま二つの道の岐路に立つ私自身の出発点に立っていることを思わないではいられなかった。  私のたどるべき二つの道——それは一つには、関東ローム層中の未知の石器文化が、現実の日本の考古学という学問の世界にうぶごえをあげて歩みはじめ、それをより健全な姿に育てあげていくことであった。  そしていま一つは、孤独だった少年の日から心に求めてきた一家団らんへの思慕ということが遠大な世界のなかにひろがり、さらに、そのなかになお追い求めていくことになったのである。  この二つの道は、時としてあい接近し、また遠く距《へだた》り離れることはあっても、今日もなお私の上につづいている道なのである。 〈父母の死〉 昭和三十六年十一月——「山師のようなことはやめて働いて金をためろ」といいつづけた父は、空っ風が吹きはじめた前橋市の一隅で脳血栓で床に臥していた。  そんなとき思いもよらない通知がきた。群馬県では最高という「県功労章」をいただけるという通知であった。五十五歳以上でなければだめという賞を、特別にオリンピックで活躍した相原信行氏と私にくださるという。私はお受けしてよいものかどうか、当惑した。しかし病床の父におくる息子の私の人生目標のただ一つの証《あかし》はこれしかない、と考えてお受けすることにした。  十一月二十三日、群馬県庁の正庁の間で受賞、その式が終わるとすぐその足で父の枕べに急いだ。その日いくらか気分がよかったのか、父は口もとをほころばせ、私が、 「県知事さんからこの賞をいただいてきた」  と、大きな賞状と銀盃を手にとらせると、 「よかったなあ、おまえやみんなに苦労をかけてすまなかった」  といって、何度も何度も、やせ細った手で銀盃をなでさするのだった。その五本の指先には、かたい|たこ《ヽヽ》ができていた。  長い間吹きつづけてきた笛の芸ひとすじにうちこんだ男の指を、私はこのときはじめてしみじみとながめやった。  だが、私が父と交わすことのできた数少ないことばは、これが最後だった。その夜ふけ、寒気のさしこむなかで昏睡状態におちいり、十二月五日、七十九歳を一期《いちご》として黄泉《よみ》の旅にたっていった。  昭和三十九年、その年を送る除夜の鐘が鳴りはじめたとき、電報がとどいた。房州鴨川の生地で母が危篤という知らせだった。四十年元日の朝早く、私と妹は母のもとに急いだ。母は私たちの顔を見るなり、ぼろぼろ涙を流した。  そのあふれ出る涙を、もはや母自身の手ではぬぐえない病状だった。松もとれ、七草もすぎたころ、母はこの世を去った。母が暮らしていた家の庭には、母が丹精をこめて育てたなつみかんの実の黄金色があざやかだった。  父には男として、母には女として、それぞれの人生の歩みがあったのだと私は思った。父にとっても母にとっても、それでよかったのかもしれないと私には思えるのだった。それが人間の歩みとしての一端であるとするなら、また私も同じような道を歩みつづけていくのだろう。ただ許されるならば、親子が一家団らんの生活をもう少し味わいたかったということである。  赤土のなかに、遠大な時の流れをきざみつづけた人間の体臭を求めて二十三年余、その間、私はひたすらに岩宿文化を育てるのに懸命であった。百キロの道を自転車で上京したことも、再三あった。この世に生を得てすでに四十年をすぎたいま、私は自分の心にいいきかせている。それは人間として、一人の男として、≪肌《はだ》に錵《にえ》、心《こころ》に匂《にお》い≫を求めつづけていきたいということである。  昭和四十二年、春まだ浅いころ、東京からの電話で、まったく考えもしなかった知らせを受けた。破格の大賞である吉川英治賞を授賞することに決まったというのであった。  この受賞の喜びを、私はだれに知らせ、だれに喜んでもらったらよいのだろう。  受賞の日、うれしかるべき私には、なぜかさびしさがいっぱいで、胸がふさがるばかりだった。ただ戸惑うばかりだったのである。  授賞式の後、はるばる桐生からかけつけてくださった友人を江戸川まで送って、その帰途、私は墨田川の橋上に立った。川面は黒くよどんでいた。  そのよどみのなかへ、いただいてきた花束のなかから一輪をぬきとって投げこんだ。そして私は鎌倉で別れたまま、いまだに消息不明の末の妹の健在を願った。  橋上に立つと、目の前に思い出多い浅草の松屋のネオンが、やわらかな光を放ってまたたいていた。 〈友情〉 思えば私は人間|嫌悪《けんお》を長く心の奥底に秘めて今日まできた。それは私の生いたちの環境から生まれてきたものであろうか。いけないことと自省自戒しながらも、人間嫌悪の情を捨て去ることはできなかった。人間の好意を率直に受け入れられない自分のふがいなさには、時として、みずから腹立たしさを覚えることもたびたびあった。  しかし、そのような私に、近年人間としての真の友愛の手をさしのべ、教えてくれた何人かの人々があらわれてきた。私はこの人々から人間としての広がりと深みの世界を教えられた。  この本を世に送りだすことについても、私はためらいつづけた。どうしても気がすすまなかった。その気のすすまぬものを決心させてくれたのは、じつは人間のあたたかみと友情によってのことであった。  原稿を書きはじめて一年有余の月日がすぎてしまった。日々、原稿用紙のます目をうめていくペン先は、時としてはたと止まってなんとしても進まないことがあった。厳寒の深夜、ひとり起きでて遠い過去をきのうのように心にえがきだすのだった。  これを勇気づけ叱咤激励してくださった講談社学芸第二部の加藤勝久部長はじめ皆さまのご支援と、何かと鞭撻してくださった玉上統一郎、千吉良進作、久保田千恵子、須藤素男の諸氏と、そのご家族の方がたのご助力を忘れることができない。  もし、この一冊の本が、読者のみなさまの何らかのお役に立つところがあるとするならば、人間としての友情を、身をもって与えてくださった多くの方がたのおかげにほかならない。  岩宿の発見——それは私のつたない歩みのひとこまであった。それから今日まで、私は私なりの夢を追い求め歩みつづけてきた。この長い旅路はなおこれからもつづくであろう。  いつの日か、孤独な私の心にともしびをかかげてくれ、いらい、私の座右の銘としている詩がある。   生涯身を立つるに懶《ものう》く   騰々《とうとう》天真に任《まか》す   嚢中《のうちゆう》三升の米   爐辺《ろへん》一束の薪《たきぎ》   誰か問わん迷悟の跡   何ぞ知らん名利の塵   夜雨草庵の裡《うち》   等《とうかん》に双脚《そうきやく》伸ばす  良寛の作詩といわれる。心荒れる夜など、この詩を口ずさんでいると心休まる。  私の歩みはいまも、どこかに遺されたはずの祖先の一家団らんの場を求めている。その指標するところ、求めてやまないまぼろしの日本原人の姿が浮かびあがってくるのである。  いまとなってふりかえってみれば、この一冊に記した岩宿遺跡の発見は、私の今日の歩みへの序章ともいえるものであった。    昭和四十三年十二月 [#地付き]相沢忠洋     文庫刊行にあたって 「岩宿」の発見——と題して一冊の本を誕生させたのは、昭和四十四年一月のことであった。それから早くも四ヵ年余りがすぎてしまった。この間、第十五回青少年読書感想文課題図書となり、感想文を寄せられた多くの若い人たちが入賞され、受賞当日、皇太子殿下同妃殿下のご前でご挨拶をさせていただいたり、また高校現代国語の教科書にご推薦をいただいたこと、そして数万におよぶ読者からのお便り等々……その一つ一つが私の心に沁みいる数々の想い出であり、これら多くの方々のご支援にただただ感謝感涙する日々であった。  もともとこの種の本は、遺跡遺物を中心に筆を起すのが一つの形のようではあるが、私は敢えてこの本からは遺跡遺物の説明は遠ざけて、赤土の中に遠大な|とき《ヽヽ》を経過しながら残された人間生活の体臭をもとめる手だてを中心に、昭和二十四年までの私の歩みを書いた。それから今日まで、すでに二十年余りが過ぎ去ってしまった。 「岩宿文化」も、その誕生から今日までに生長してきた経過には、随分いろいろなことにぶつかってきた。それらはいずれ世に出すとして、このたび、その思い出の本が再び講談社文庫の一冊として誕生することになり、より多くの方々に読んでいただくこととなった。私にとっては本当にうれしいことである。と同時に自分の未熟に対する恐《こわ》さ、恥かしさで一ぱいである。どうか可愛いがって生長させてくださるようお願いしたい。  昭和四十七年もあと数日で過ぎ去ろうとしている。北関東の一角にそびえる赤城山はもう白く化粧して、その裾野を長く引いている。私はこの懐《ふところ》で、より遠古の赤土の体臭——下部ローム層中の旧石器文化——の追求に全力をあげている。それは、日本に旧人原人文化が存在するか否かへの学問研究の課題に(存在する)という証をたてるためである。  文庫本刊行にあたって、一部写真、図版等をかえたが、本文はそのままである。刊行にあたって、出版部の梶包喜部長、担当の吉田富次氏およびご配慮をいただいた多くの方々に厚くお礼を申上げる。    昭和四十七年十二月二十七日 [#地付き]相沢忠洋   [著者]相沢忠洋  一九二六年、東京生まれ。小学生の頃より歴史に興味をもち、東京四枚畑貝塚を踏査。戦後桐生市に住み、行商で赤城山麓を訪れるかたわら、その周辺の遺跡を踏査し、ついに「岩宿石器文化」を発見した。一九六一年群馬県功労賞、一九六七年吉川英治賞を受賞。一九八九年没。著書『岩宿の発見』(本書)『赤土への執念—岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ』(佼成出版社)『赤城山麓の旧石器』(共著・講談社) 連絡先=〒376-0131 群馬県勢多郡新里村大字奥沢字夏井戸五三七 相沢忠洋記念館    * 本書(単行本)は、一九六九年小社刊。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九七三年一月初版刊)を底本とし、一部表記・ルビの統一を行いました。なお、親本掲載の写真・図版は割愛いたしました。写真資料などは左記のホームページをご覧ください。   相沢忠洋記念館公認ホームページ